日本にいた頃、クリスチャンでない私には他の大多数と同様クリスマスは単純に大切な人にプレゼントをして、何か美味しいものを頂いてというエキゾチックなイベントとしか映っていませんでした。
10年前、イタリアに移住した一年目のクリスマス。原始人が「商業主義に凝り固まったクリスマスをお前には見せたくない」と強引にあるところに連れて行かれました。
チステルチェンセ系修道院「プラ・ドゥ・ミル(Pra d'Mil)」です。ピエモンテもフランス国境に近いアルプスの麓の村から車でさらに20分、ほとんど陽のあたらない荒涼とした自然の深い谷あいにぽつんと存在しているこの修道院では修道院長のパードレ・チェーザレ以下わずか5人の修道士が生活しています。
私はクリスチャンではないことを知っていてもイタリアの教会の関係者はどこでも私を笑顔で彼らのコミュニティーに取り込んでくれます。それは10年前、言葉にもそれほど自信がなく周囲から取り残された気持ちに陥りかねない不安を取り除いてくれた人たちでもありました。だから私は今でも教会に行くのが好きです。
正直、福井の永平寺で生まれ育った私からあのお寺の空気や体にしみこんだ仏教文化を拭い去ることは難しいです。でも、同時にこの小さな修道院で過ごすクリスマスに他で得ることのできない心の穏やかさを得ていて、10年間毎年ここに通ってきました。
このビデオはイタリアのSAT2000が2008年制作放映し今でもネットで公開しています。イタリア語なのでインタビュー内容をすべての方に聞き取っていただくことは難しいかもしれません。
が、それがたった5分でも彼らの穏やかで澄んだなまなざしや質素でも強い精神をもって彼らの神に仕える姿を知っていただけたら、イタリアではクリスマスをこんな人たちと過ごす者もいるのだと知っていただけたら嬉しいです。
日本にいたときの私にはただ祝うだけのクリスマスが、今ではイタリアでキリストの誕生を確かめ合いその意味をともに考える人たちの間で過ごす時間に変わりました。
信者でない者にはキリストの誕生、あるいは復活の奇跡に確信がもてないと仰られる人もいるかもしれません。
実は肉体的、物理的にその事実を肯定することも大切ですし、多くの文献その他がその事実を証明していますが、でも実は私から見ればもっと大切なのはその奇跡が語っている事柄、そしてそれを繰り返し信じてきた人が20世紀を経て今も存在しているということなのではないかと思います。
『聖書の言葉を頼りとし祈りとして何千回、何万回とその言葉を繰り返し口にしてきた、2000年も繰り返してきた事実がまさに真実を自分たちにもたらすのではないか。』何年か前にあるイタリア人が私にそういったのを思い出し、自分がそうして祈りをともにしている人たちとクリスマス・イブのその夜を共にさせてもらえた事はやはり神様に感謝したい 、、、と。
そんなことを考えながら今年10回目の『Pra d'Mil』修道院でのクリスマスのミサを終え再びソルデボロ村に戻ってきました。
マンマの作るアニョロッティ、モスカさんのクリスマス用虚勢牛の品評会そして今日の修道院のミサと三回で私のクリスマスの過ごし方をご紹介しました。
どれも華やかさとはかけ離れた世界ですが、軽薄さやコマーシャリズムを寄せ付けない私たちのそのままの生活の1ページを切り取りました。どれか一つでもお気に召して頂けたら光栄です。
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