『il Golosario(イル・ゴロザリオ)』への寄稿第2回の日本語訳です。今回は日本食文化の代表『お寿司』について。色々小さな誤解を含んだままスターダムに駆け上ったこの料理に纏わる笑いのエピソードを交えて今一度イタリアで紹介してみたいと思いました。
ちょうどあるイタリアンのシェフが日本の寿司(Sushi)は『Noiosi(つまらない)、俺の創作Susci」は最高!』と全国紙2ページを割いて語っていたのを読んだ頃で、反論したくなったものあります。日本のお寿司をお腹いっぱい食べた時のような満足感はありませんでしたが、彼のいうSusciも確かに創作性溢れる力作ではありましたが、、、。
では、Buona Lettura!
WAZAWAI・of・す-し-
http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/sushi#.VNHb
イタリア語を話せない者が、イタリア人と友情を結びたいと考えるとき、料理に覚えがあったらそれは幸運だ。
初めてピエモンテを訪れたとき、現地の友人達にすしを作って欲しいとせがまれて困った。イタリアで流行のいわゆる『にぎり寿司』は日本の家庭では作らない。すし職人はすし飯を炊けるまでに3年、握りに8年かかるといわれるプロの料理だ。
なぜかは聞かないで欲しい。が、そのとき私の鞄の中には。ワサビも、醤油も、さらには最高のコシヒカリ米や大吟醸酒まで入っていた。
私が生まれて初めて握ったすしは最低の見てくれだった。が、それを食べたイタリア人の一人がその後まもなく私を娶った。
結婚式当日、3頭の大マグロが魚屋から贈られた。花嫁のはずの私自身で解体して結婚を祝ってくれた人100人に振舞った。準備が終わって会場に入ると、晴れの日に皆で味わおうと食べずにいたペコリーノ・ディ・フォッサ(トスカーナのテンダロッサのオーナー自らがガレージで熟成してくれたもの)もラルド・ディ・コロンナータ(あの小さな広場のタバコ屋で日本人で一番きれいと褒めてくれたおばあさんから買った)もただの一切れも残っていなかった。すしは良く知っている。イタリアの選び抜かれた食材の味は私だって試してみたかった。
新婚旅行の道すがら、ある全国紙で働くジャーナリストの知り合いをブラッチャーノ湖畔(ローマ近郊)に訪ねた。彼は土産は要らないから大好きなすしを作って欲しいという。小さなアタッシュケースにワサビや他の材料のほかに今度は切れ味抜群に研がれた包丁も入れてピエモンテを後にした。一晩にすしを2回、計150貫作ったのはあのときが最初で最後。その後も友人を訪ねるたびに必ず寿司作り専用具を入れたケースを必ず持ち歩いている。
リグーリアでは、マグロを手に入れられなくて苦労した。漁港をうろつき漁師さんたちと仲良くなり、徹夜の漁に出る船に隠れ乗りマグロを分けてもらうと、陸に上がって体に船の揺れが残る困難のなかマグロをさばいた。その漁師さんたちとは10年以上の付き合いになる心の友だ。
当時、イタリア語を勉強はしていてもイタリア人同士の会話にところどころしか参加できなかった私にとって、食卓に上る自分の国の一皿に言葉にできない愛情を込めてコミュニケーションとするので精一杯だった。あれから15年が経った。
『すし』はそもそも煮た米の中に魚の塩漬けを入れて発酵させた保存食だった。それが日本各地で形を変えてそれぞれの地域の『すし』になった。200年前、江戸と呼ばれていた東京で料理人が『すし』を粋に作って売り出したのが『握りずし』だ。素材をいじりすぎず、魚の鮮度、米の旨さを引き立て人を喜ばせるのがこの料理だ。始めは抵抗感があっても何度か食べるうちに他の料理にはない不思議な魅了でもう一つ食べたいと思わせる。シンプルに見えて熟練した料理人の腕が求められる料理であり、家庭料理ではない。そのためかこれなしには生きていけない料理『ソウルフード』は何かと聞かれて「すし」と応える日本人はあまりいない。私にとってもソウルフードは白いご飯に秋刀魚の塩焼きだ。
15年前は、食で保守的なイタリア人女性に敬遠されることも多く、そんな時は自分自身が敬遠されたように落ち込んだものだった。だが今は、まさにその女性たちから「すし」作りを教わりたいといわれる。近頃は「すし」を握らなくても友達はどんどん増えている。が、すしを介して友情はもっと早く深く膨らんでいる。世界を一つにするのは音楽だけではない。美味しい料理だってそうだ。
ナポリから東京にやってきたカメオ職人が日本の友人のために母親の味を思い出しながら作ってくれたボンゴレ・スパゲッティのトマトソースの味の深さは今も忘れることができない。
長らく会っていなかったワイン生産者の友人からある日連絡があり、娘のクリスマスプレセントに私には無断だったが『幹子の作ったすし』と書いたカードをプレゼントしてしまった言われた。どうしてだか分からないが、くすぐったい嬉しさを感じた。
私の父はほとんど笑うことのない怖い人だった。が、魚をさばくのを見せてくれ、名工の打った包丁を家を出る私に渡してくれたことには今も感謝している。
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Da Sordevolo |
Da 5 ago 2009 |