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ピエモンテからぶじゃねんの陽だまる山郷生活

BENVENUTI ALLA CRONACA DEL BôGIA NEN ! ピエモンテの山郷でのんびり生活しています

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イタリアチーズ、アルペッジョの誇り『ベッテルマット』

昨年9月から原始人はビエッラの地方紙にコラムを書いてきました。イタリアの食に携わるパーソナリティを紹介する記事はそろそろ19回目を迎えます。
 
地元のこれを思えるパーソナリティーを探すのはなかなか難しい。でも時には思いもしない出会いがあります。
ここにそのうちの一人を紹介したいと思います。
ピエモンテのスイス国境沿いに住みチーズのロールスロイスとまで異名をとる高級チーズ』ベッテルマット』の生産者フランコさんです。 
Franco.jpg
私が紹介するより原始人の記事をそのまま訳す形で紹介したいとおもいます。
 
フランコさんは私が住むソルデボロ村のマルガリと呼ばれる酪農家の人たちとちょっと違います。きれいな一戸建てに住み、そして特にとてもきれいなイタリア語で話をしてくれます。
たしかにサロンの本棚には積みきれず落っこちそうなくらい本が並んでいました。
 
Cantina.jpg
マルガリの人たちと同じように山に登り電気も届かない山小屋(アルペッジョ)でチーズを作る人ですが、なにか私の尊敬するテオバルド・カッペッラーノを思い起こさせる強いものを感じました。

ずっと何だろうと考えていたのですが、それはたぶん、周囲の価値観に流されない自分のもの作りの観念がしっかり出来上がっていることからくると思いました。
一緒にいてそういう穏やかな安心感があり、決してそれに作りものくささとか、媚がない。
 
ではどうぞ、、、

ベッテルマットについてのZACKZACK記事

アルペッジョの誇り、ベッテルマット
 
―私は好みはかなりシンプルだが、常に喜びを見出せるのはより優れたものに対してだ―
オスカー・ワイルド
 
 
 1月のある午後、フォルマッツァ渓谷にたどり着いてみると『その美しさには見惚れてるな』とでもいいたいかのようにクロード村ヴィチェーノ地区への道路は深い霧につつまれ山頂に向かってわずか先で消えている。このまま一生目的地に着けないでこの辺りを彷徨うのだろうかと心配になる。

ベッテルマット・チーズの生産者で最高齢のフランコ氏との約束の時間にはまだ少し余裕があった。
 
 氏は72歳、健康な老年期、人生の冬の季を活力をもって迎えた氏、明るい毛髪と幾多の皺の下にラベンダー色の二つの目が輝いていた。

 周囲の美しい山々は霧に包まれ想像するしかないが、氏はこの地区のまだ新しく見えるビラに奥さんと二人住んでいた。

 「ベッテルマットは全脂肪の生乳で作るチーズです。搾乳したばかりの生乳を32から35度に温め自然素材から抽出した凝固剤を加えます。60日の熟成期間をおいても柔らかみのある質感でなければなりません。カードを粉砕したあと軽くプレスをし、塩漬けしますが、それは塩を手作業でまぶす方法と塩水に漬ける方法があります。私は手でまぶす方法で行っています。(ぶじゃねん注:手でまぶす方法は重労働かる気を遣う作業、今ではあまりやりたがる人はいません。)
 
アルペッジョには7月から9月に最長で70日間居ますが、規定で標高1800メートル以上あるものでなければなりません。現在アルペッジョは全部で7件のみです。
私は標高2500メートルにあるアルペッジョ『アルぺ・トッジャ』に上ります。グリス峠のちょうどまん前にあり、私の牛も放牧中に国境を越えることがしばしばです。
 
私たちの生産するチーズは実際、他のチーズとはかなり違います。ベッテルマットの放牧地にはイタリアンパセリを思わせる野生の植物が豊富に生えています。マットリーノといいますが、それを牛が食べることでチーズは独特の黄色味を帯び、味わいも他と取り違えようがないくらいの特徴がある。」
 
氏に会う前から、この夏は彼のアルペッジョをたずねる計画でいたが、60日の熟成期間という長さが僕のはしゃぐ心を萎えさせてしまった。つまりだ、ベッテルマットは10月から12月という僅かの期間に全てが売りつくされ、アルペッジョに氏を探しに行ったところで彼のベッテルマットを口に出来ないではないか!しかもだ、昨年などは7月はまだ雪が降っていた。


「私の生活は毎朝4時半に始まります。起床して、搾乳を終えるとチーズを作ります。休んだ日は一度もありません。本当をいえば休みはとりました。家内と一緒になったときに10日間と山から下りてきて一度だけ体の調子がわるく一週間」

 コーヒーをもってそこに現れる夫人。活発で、笑顔を絶やさず親切な夫人はサイドテーブルに置かれえていたヴァルサー民族の写真集を広いた。(ぶじゃねん注:ヴァルサーはモンテローザの周辺に住むドイツ系民族。スイス、オーストリア、イタリア北部に住む。家屋も独特の建築様式に、独自の文化を持つ)

「私はこの人種なの。私の苗字はアンデルリーニというけど、イタリア風に言い換えたのね。昔はアンデルリンだったのよ。

 ベッテルマットのアルペッジョはもとは私の一家が所有していたのだけど、私の曽祖父が1821年にスイス人に売っちゃったの。そのときの証書が今でもあるわ。支払いはイスドール金貨でされたというのだから驚きよね。私と夫は70年代にアルペッジョで知り合ったのよ。さあ、このグラッパも絶対飲んでくれなきゃだめよ、買ってきたんじゃないんだから!」

フランコ氏は続ける「私はここで生まれましたが、家内はフォルマッツァで生まれました。私の人生はすべてアルペッジョにあります。最初にアルペッジョに牛をあげたのは私がまだ8歳のときです、わかりますか? 戦後間もない頃で、生活は苦しかった。

 私の父は私が7歳のときになくなりました。母は、下半身に怪我をしていて重労働が出来なかった、兄弟は弟が一人きりです。父は戦後アフリカから戻ってくるとマクニャーガの金鉱でトンネル堀をしていていた頃結核にかかりました。今のように医療は発達していませんでしたからね。父の顔もうろ覚えです。

 私には物乞いをして生きていくか、歯を食いしばって生きていくかの選択しかありませんでした。まだ年端も行かないそのころの私でしたが頑張って生きていこうと決意をしたんです。」

  氏が私たちを牛舎に案内してくれた。整頓され、清潔な牛舎の牛は20頭ばかり。その牛たちが氏を見ると嬉しそうにする。それが一目で見て取れる。

「今ではアルペッジョでも搾乳は搾乳機を使いますが、私は40頭の牛の乳を3時間で手作業で搾ったことがあります。自分の最高記録です。搾乳競争をやったのではありません。その夜は肩が痛くて眠ることができませんでした。私たちはアルペッジョにいたのですが、その日は作業者が2人足りなかったんです。一人は逃げ出した(山の上の生活はとても厳しいですから時々根をあげるものが出ます)もう一人はその日に来るはずが来なかった。約80頭の牛を二人で搾乳しなければならなかった。だから一人で40頭です。(因みに現在は1時間弱で35頭をオートメーションで搾乳する機会すら存在する)

 現在ではアルペッジョにも四駆で楽に行くことができますしね、家畜もトラックで上げられる。私は九つ歳のトランズマンツァを覚えていますが、夜中に村を出発して日の出までの6時間をかけてアルペッジョに徒歩で牛と上りました。その当時の話を娘たちにしても信じてもらえません。奇想天外に見えるようです。私には3人の娘がいます。3人とも女で、私に人生の過ちがあるとすれば、それはその3人とも大学までやってしまったことです。」
 

 氏は笑みを浮かべてそう言ったが、その言葉は僕には冗談なのか本気なのか識別ができなかった。ただ彼の愛情と誇りを強く感じさせられた。

1900年代初頭のチーズ工房にも案内してもらった。チーズ作りには薪が用いられ(当然、今の時代には衛生基準を満たせす追放の憂き目にあった)タイルは磨き上げられ、壁に下げられている道具類はついこの間まで活躍し、今もひそかに鼓動し続ける農民の歴史を肌で感じる。

「どんな仕事にもこれは言えます。情熱が大事なのです。私は自分が間違いをしたときも自分の手がそれを感じます。これほど長い間同じ仕事をしてきても間違いは起きます。乳は生きているからです。些細なことで何かが変かったり変化したりします。最高のチーズを作ろうと思ったら搾乳から熟成まで全てを自分の目で確かめながら作ることが必要なんです。」

  見学は終わった。フランコ氏の車で牛舎から自宅に戻る。氏はさらに話し続ける。まだ何かが彼の瞼のうらによみがえるらいしいのだが、それを僕たちに対して語っているのかどうかは不確かだった。

「幼い頃、私は厚い板の上で寝起きをしていました。干草があるときはそれを少し上にひいて。ポレンタと牛乳だけが私の毎日の食事で、スプーンもパルチザンの兵士が置いていったもの一つきり、よく覚えています、まっがた柄にはその兵士の名前Ivanと彫ってあるものきりでした。ポレンタ、牛乳、お米にリコッタ。食べるものといえばそれきりだった。

アルペッジョに上るときにはそれぞれがライ麦パンをそれぞれの牛の背中につけて運びます。そのパンを山で暮らす間もたせなければなりませんでした。牛が40頭いればパンも40個というわけです。

 私の人生で一番苦しかったことといえば私が11歳のとき、家主から家をあけ渡すよう言われたことです。自分には働くことは出来ても財産など一銭もなかった。私は必死でした、絶対に宿無しになるわけにはいかない。家主に掛け合い、農業組合から300万リラを借り受け私はその家を買いました。」

  そこで彼は車を道路わきに寄せるとエンジンを切る。

 「牛舎はね、建て直したんです。妻や娘たちには反対されました、もう年金生活に入る年で山には行くのもやめるべきだと。おそらく今年がアルペッジョにいく最後の年になるでしょう。これまで苦労をしてきて最後に自分の仕事をたたまなければいけないのは酷だと思いませんか?」

  その言葉のあと僕たちの顔をしばらく無言で見つめていたあと、ハンドルを正面に持ちかえると車のキーをひねった。

  フランコ氏はこの夏アルペッジョにいらっしゃいと誘ってくれた。彼のチーズを口にできるのは来年のクリスマスごろになってしまうが、アルペッジョが始まったら早々に絶対彼に会いに行こうと心に決めた。 

  フランコ氏が大好きになった。彼の傍らに静かに腰をおろし自家製のグラッパをなめていたい。
 「暖炉のそばで体を温めるのが大好きでね、、、ほら、子供の頃あまりに寒い思いをする日が続いきましたから。」
   文:クラウディオ・ガッリーナ
 
   1月21日発行 『La Nuova Provincia di Biella』紙より
 
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実に明快!2010年秋、ソルデヴォロ村に滞在された公楽さんご夫妻が紀行文を寄せてくださいました。読めばソルデヴォロ時間が流れるでしょう。

ここです、、、

Video:オルガのバター作り

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