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ピエモンテからぶじゃねんの陽だまる山郷生活

BENVENUTI ALLA CRONACA DEL BôGIA NEN ! ピエモンテの山郷でのんびり生活しています

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ブログをお引越ししました。

みなさま、これまで『ピエモンテからぶじゃねんの陽だまる山郷生活』を応援頂きありがとうございました。 
この度、『ぶじゃねん通信-イタリア・ピエモンテから-」と10年前の出発点に立ち戻り気持ちも新たに新ブログを始めることにしました。 
URLは下記になります。
今後ともご愛顧のほどどうぞよろしくお願いをいたします!! 
 
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『足りない何かがあるとするなら』- 日本を代表すヴィニャイヨーロ、岡本英史さんに聞く

久々に投稿いたします。

今年1月に始まったイタリアの食の評論家パオロ・マッソブリオさんとのコラボレーションもそろそろ1年が過ぎようとしています。今回は、この10月に伺った山梨県にあるワイナリー『Beau Paysage』のワイン生産者、岡本英史さんへのインタビューです。気に入っていただけるといいのですが、、、では、どうぞ。



足りないものがあるとするならば (原題 Quello che manca.)』


http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/un-grande-vino-giapponese


 晩秋の陽光が山里のログハウスのガラス戸越しに差し込んで、私たちをなんとなく暖めてくれていた。何日か前、私たちは刺すほどに乾いた冷気の流れる山村に居た。

私たちの住むアルプスの麓ではあまり珍しくない。ただ、その時私たちがいたのは日本のアルプスの麓だった。


「普段何を飲まれれていますか?どんなことに興味が話してみてください?」
それまで彼を質問攻めにしていた私たちに今度は岡本さんが聞いてきた。

BEAU PAYSAGE』のEISHI OKAMOTO、現在、日本のヴィニャイヨーロ(自分でブドウを栽培するワイン生産者)の中でシンボル的な生産者。


 全ては5年前、東京でそれと知られた焼き鳥屋(鶏肉の串焼き専門店)で飲までせてもらった彼のジェルドネに始まる。

クラウディオとの日本旅行の途中で国産ワインをいくつか試したものの心に残るものに出会えないでいたが、彼のシェルドネの奥深さと活力にイタリアやフランスのワインを含めてもそれまで感じたことの全く無い衝撃を覚え、以後ずっと彼に会ってみたいと願ってきた。

が、その瞬間、イタリアへの帰国を12時間後に控えていたからか、山梨の谷間にあるその静かな空間で彼と向き合っていることが不思議に思えてならなかった。


 クラウディオが、僕たちは様々なワインを飲むが特に食事とワインの組み合わせを楽しむのが好きだと答えると、シャルドネを既に知っているようだからとピノ・ブランの栓を切ってくれた。

グラスに注がれる深い黄金色を見て長期に醸されているのが見て取れる。ところが、個性的で力強い味わいを想像しながら口に含み、その柔らかさとエレガンスに驚嘆した。

『こんなワイン飲んだことない!』というと、彼に私たちを引き合わせる労をとってくれた近しい友人が楽しそうに言った。


「岡本さんのワインを飲むと多くの人が一様に『この品種のこんなワイン飲んだことがない』といいます。それぞれの品種のもつ特徴についての概念が覆されるでしょう?」


醸しはこのワインの特徴のほんの一部として味の中にバランスを持って存在し、ともするとこのタイプのワインにありがちな濁りも一切無い。フルーティーさ、穏やかさの中にみなぎる活力がある。このワインには命が宿っていると強く感じた。


彼自身も確認するかのようにゆっくりと岡本さんが口を開く、
「白ワインはそのほとんどが果汁のみで表現する製法を用いていますが、それは歴史的には浅く、本来は白ワインも果皮も種も含めた果実全体で表現をするべきものなんです。」

 岡本英史さん45歳。20年前、大学の農学部で生物学の研究をしていたころ、アルバイト先のイタリアン・レストランでワインに魅了された。

まだあまり知名度のない日本産ワインを東京で売ることを仕事にしたいと、時間を見つけては日本のワイン産地として有名なこの山梨に同僚たちと出かけて来て生産者を訪ねるようになった。

だが、そこで彼が目にしたものは当たり前に思っていたフランスやイタリアでのワインに対するのとは『全く違った事が行われている』という現実だったと言う。

彼のこの表現に、当時の日本人の知らぬが故の安易なワイン作りとその事への彼の落胆振りが想像できた。

(例えば日本では未だ補糖が許されている。)そこではワインは『単なる飲み物』でしかなかった。だったら自分で作るしかない。

 


 岡本さんは99年から山梨県でブドウ栽培を始めているが、選んだ場所は勝沼のようなワイン生産で知られた地域ではなく『Beau Paysage』の名にふさわしい谷間に棚田の広がる津金だった。

現在、2haほどの畑でシャルドネ、ピノ・ブラン、ピノ・グリーそしてソヴィニョン・ブランの4種の白ブドウ品種とメルロ、ピノ・ノワール、カベルネ・ソヴィニョン、カベルネ・フランと同じく4種の赤ブドウ品種を栽培。

年平均で12000から15000本程度のワインを生産しているが、土地を購入したときには「ここではブドウは育ちませんよ」と言われたそうだ。

畑では不耕起、不施肥、醸造は自然発酵で、亜硫酸は『ワインを殺してしまい真のテロワール表現できなくなる』と一切添加していない。

Beau Paysage』のワインを世に知らしめたのは日本では栽培が困難とされてきたピノ・ノワールだった。

2002年の初収穫であまりに収量が少なくメルロに混ぜるしかないといわれ、ならばと全て手作業で醸造を行ったした。そうして作られたピノ・ノワールの温かみと柔らかさに彼自身も驚き、その後、赤ワインの醸造は全てこの方法で行っている。

彼のピノ・ノワールはそのルビー色の中に奥ゆかしくもエレガントな居住まいを保ち、飲む人の心を揺り動かし、彼の実力をはっきりと認識させてくれる。

だが、この土地に適した品種をまだ探している試験段階でしかないという。彼の後、100年後ぐらいに誰かが本当に適した品種が見つけてくれればそれでも良いくらいに思っていると笑った。実際、今年に入ってネッビオーロも植えている。


「大切なのはぶどうです。ぶどうはその土地をそのまま写し取ったものでなくてはならない。ワインを飲むということはその土地の自然と触れ合うことであり、意識的、無意識的に人も自然の一部であることを確認する行為と考えます。」


 岡本さんが語る声は細く気をつけて耳を傾けないと聞き逃してしまいそうなくらいだが、その言葉には自分の『もの作り』への明確な認識が感じられるだけでなく、朗らかさがある。

どことなく土の中から這い出してきたコオロギか何かの昆虫に地面の下の世界を語ってもらっているような楽しさがある。
 

 彼はイタリアに来たことがない。20年以上前にフランスを旅したことがあるきりだ。ヨーロッパの生産者との交流はあっても僅か。

なのに彼が自然に身につけたワイン生産へのアプローチは、リーノ・マーガ、テオバルド・カッペッラーノ、ジュゼッペ・リナルディやサルヴォ・フォーティといった私たちの良く知るイタリアの偉大なワインの造り手たちのそれと同じなのだ。

土とブドウに真摯に向き合おうとする人が出す答えは共通して不必要なものをどんどん取り捨てつつ自然に沿うしかないということか!?この疑問に岡本さんは迷うことなくこう答えた。


「実は私には師と呼ぶべき麻井先生という人がいたのですが2002年に亡くなりました。彼が僕に残してくれた言葉があります。

『日本のワイン作り足りないものは気候でもなく、技術や知識でもない。足りないのは思想です。自分の心の教科書を破りなさい。そして、自分の頭で考えなさい。』」


 島国日本は、太古から稲作や仏教に始まる新たな外の文化に触れる度に無垢な心で驚愕し自国の文化に調和をもって取り入れてきた。

だが、グローバル化が人の手を離れたところで加速する一方の現代、私は海外に暮らす日本人として、海外からの新しさを礼賛するあまり日本のこれまでの伝統文化が廃れるのではないかという複雑な思いをずっと募らせてきた。

今回、岡本さんに会ってみて日本の伝統や農業が抱える問題は、この千年来の国民性にあるのではなく、もっと別のところにあるのだと思い知らされた。


 「今、ボトリング作業をしているのですが、最後に見て行かれますか?」
小さいが塵一つ無い作業場に入ると2リットル入りのひしゃくで青年がワインをタンクからゆっくりゆっくり桶に移していた。

岡本さんは亜硫酸を添加したくないがためにワインへの空気による衝撃を最小限にしようとポンプを使わない。

チューブからボトル内に落ちるワインの雫は壁面を伝って静かに納まっていく。一滴もこぼさぬようボトル交換のタイミングを無言で待つスタッフ。

これだけは日本人にしか考え出せない究極の作業方法だ。彼は除梗も全て手で行っている。彼がやろうとしているのはまるで泉に沸きだす水を両手に掬い取るがことく、ぶどうを介し、まるごとの自然を私たちの口元に運んで来て流し込んでくれるようなものだ。


 別れ際、「今度はこの辺りに泊まったら良い、もっと色々話ができるから」と彼が微笑んだ。イタリアと日本はまだまだ話し合うべきことが山ほどある。


 12月9日 www.ilgolosario.it 掲載



『イル・ゴロザリオ』寄稿10回-山口県のミラノ博でのイベントに迫ります

 5月24日日曜日     、ミラノ博日本館で行われた山口県のイベントに参加して来ました。色々なご縁で山口の皆さんがミラノにお出でになる前から動きを追わせて頂いていたので気持ち的にも共にに歩いた気になっていた私。そんなことからイタリア人のこの素敵な取り組みを良く知って欲しいと思い『イル・ゴロザリオ』の記事にも取り上げさせていただきました。

 ご参考までにタイトルの『ザ・グレート・ビューティー』とは私の大好きなイタリアの映画監督パオロ・ソッレンティーノが昨年アカデミー外国語映画賞を受賞した作品の英語名のタイトル。(イタリア語は『La Grande Bellezza』)現代のイタリアの混沌としてカラフルかつ退廃的な部分を皮肉たっぷりに鮮やかに切り取った映画です。

では、いつものように日本語訳で紹介させていただきます。


The Great Beauty
http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/great-beauty

 

『味の良さに加えて見た目の美しさ、この2つで日本語でいうOMOTENASHIをする、つまり人をもてなす、これが日本料理の原点であると私は信じとります!』
ともすればキッチンに隠れてしまいそうなほど小さな体からふり絞るように日本料理人は観客に向かって訴えるとフグの身に包丁をいれた。

 ヨーロッパで初めて猛毒を持つ魚フグを食べさせてもらえるという半ば興味本位で詰めかけたイタリア人を前にしても、数十年をかけて磨かれた腕を持つ料理人の眼差しはびくともしない。食感を楽しむために透けるほど薄く切られたふぐの刺身を、観客らの死の危険を冒して食するドキドキとは全く無関係のところで、鶴や菊の形に美しくお皿に盛っていく、その妙技にはその『おもてなし』の心が込められていた。

 これは524日、ミラノ・エキスポ2015の日本館で企画された山口県のイベントの一コマだ。人口150万人の本州最西端の県が地域の良さをPRすべくミラノに乗り込んできた。


 ちょうどイタリアという国が生まれたのと同じころ、日本でもリソルジメントに似た動きが起こっていた。アメリカのペリー提督から開国を迫られたのを引き金に侍の時代が終わろうとしていた日本で、この山口(当時の長州)はイギリス、オランダ、フランス、アメリカを相手に戦争を起こし、また西洋の威力を思い知ると海外から積極的に知識を得ようと懸命になった。幕府を倒して将軍から権力を天皇に奉還させ、日本に新しい時代を築いた藩の一つでもあった。

山口はそんな利発で勇気あった人たちの末裔の地だ。腰には刀こそ差していないが、いずれも一本の強い芯を持った人たちがミラノにやってきた。そんな誇り高き人たちだからこそ日頃から自分たちが大事にしてきた魚、寿司そして日本酒をイタリアの人たちに差し出すその手にもまなざしにも優しさと穏やかさがこもっていた。

 

『ヨーロッパで山口を紹介するのは今回が初めてです。私たちはこれまで、山口の良さを発信することに発ち遅れていたと思います。私たちの地域は三方を海に囲まれ、様々な自然の特色を持ち、良いものが沢山ある県です。それをもっと知ってもらいたい』42歳と若さあふれる村岡嗣政知事はこう語る。

彼こそ真っ直ぐで、選ぶ言葉も完璧すぎるくらいだが、特産の岩国寿司の話になると『あれは本当は足で踏むんですよ。』と、楽しそうに足で踏む真似をして見せた。その時の笑顔に彼の郷土の料理に対する抵抗し難い愛着をみた。

山口と言えば、私の3月の寄稿で紹介した新谷酒造という小さな蔵元がある。今回、新谷義直さんは来ていないが、実は大切な酒を生産者仲間である岩崎喜一郎さんに託していた。彼が2ヵ月以上も不眠不休で作ったビエッラ産イタリア米による日本酒だ。


 その名も『Il Sake』イタリア米の粒が日本のものの倍ほども大きく倍の時間と労力を要して作らなければならなかったが、4月に絞り、瓶詰されることになり、ならばちょうどエキスポに持って来られると、イタリアと山口を結ぶ食のシンボルとして会場で紹介されることになった。

作った自分が紹介できないもどかしさを感じる新谷さんを見かね、岩崎さんが紹介役をかってでた。岩崎さん自身の作る貴重な酒『長陽福娘』も含め山口の代表的なお酒のボトルが並ぶ中、彼はこの小さなボトルについて紹介する。

実は、このプロジェクトには私も2011年の震災直後から関わっていた。日本酒をイタリアで醸造することから良い日本酒をヨーロッパで普及させようという企画だが、道は今もまだまだ険しい。それでも、ビエッラの有志のおかげもあり、今回の試験醸造の運びとなった。

 口に運ぶと、すっきりした辛口で後味に複雑な深みがあった。イタリア料理にも間違いなく合う。日本で醸されたがテロワールはイタリアだった。その味わいを噛みしめていると山口の人が後ろから私の肩をぽんとたたき『色々な偶然の積み重ねでこうなったけど、ほら、ここにまたストーリーが生まれたね。』と笑って言った。涙が出た。
 
 

現代のイタリア人なら普通にできてしまうことだが、日本人にとって自分の地域や生産物を海外で紹介することは偉業だ。つい最近まで自分たちの日常的な生産物が世界に通用する優れた生産品だとは夢にも思っていなかったこと、そして言葉の問題もあるだろう。

 それが今回、こうしてエキスポ参加という偉業を成し遂げたいと彼らが思ったのはそれがイタリアだったからだ。

 歴史、芸術があり、魅力にあふれ、ダビンチやミケランジェロを生んだ国イタリアだからだ。パオロ・ソッレンティーノが映画『ザ・グレート・ビューティー』で皮肉と苦みをもって描いたような現代のイタリアの全ては理解できなくてもその混沌とした魅力に惹かれ、イタリアに挑んでみたいと夢見てしまう。

 硬い木箱から幾重にも多彩な色を織りなす岩国寿司を取りだす瞬間、フグを口にする瞬間のイタリア人の驚きの顔を想像し胸をときめかせるから老練の料理人も自分の息子ほども年の離れた知事を頼って一緒に飛行機に乗ったし、イタリアと山口をもっと近づけたいと皆が思ったから『
Il Sake』も他の優れた日本酒たちの旅の仲間に加えた。

Expo 2015に開催地に選ばれ、『食』がテーマとなった時から既にイタリアは勝利への切符を手にしていた。経済大国でも、貧しい上に戦渦に巻き込まているような国でも『食』は人の生存の根源に関わる。

 どんな国にも『食』ついて語るべきことがある。日本のように多くの資材を投じ、地方の食の豊かさを訴えようと出かけてくる国もあれば、ボリビアのように、標高の高い彼ら国で命綱のように大事な乾燥芋だけをほそぼそと展示しているところもある。ここは世界の縮図だ。



 イタリアが開催国としての威信をかけて作ったパビリオン・ゼロは人の目を奪う美しさだが、同時に決して土のにおいを忘れていないことに驚いた。山口の人ひとたちも憧れ挑んでみたい相手としてのイタリアの『The Great Beauty』がここに形になって表れていた。

 イタリアではこのエキスポに賛否両論あったことは知っている。

 が、イタリアという国を愛しているなら考えてみてほしい、もしこのエキスポが失敗に終わっていたらイタリアにとってそれは何を意味していたか、そして山口の人たちのように懸命な努力でエキスポに臨んだ人たちや飢えに苦しむ小さな国からかすかな望みをもってやってきた人たちの思いを。

『イル・ゴロザリオ』寄稿第7回は 井川直子著『シェフをつづけるということ』を読んで

イタリアの食の分野で活躍する人たちが、この本を読んだらどう思うだろう!? 今、イタリアで修業中の日本の若い料理人さんのことももっと知って欲しい! そんなワクワクする気持ちでこの原稿を書き始めました。

読むのと書評を特にイタリア人に向けて書くのは全く違うことですね。イタリア人に子の本について知ってもらいたいことはもっともっとありましたが、最終的に削って削って、いったいこの本の何を知ってもらいたいのか、、、一番苦戦したものになりましたが、とっても楽しい作業となりました。 井川直子氏はじめご協力を頂いた皆さんに感謝しつつ日本語バージョンをこちらに掲載します。 

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               『シェフをつづけるということ』

http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/fare-lo-chef


   

日本で一冊の本が出版された。-シェフを『つづける』ということ(ミシマ社)-ジャーナリスト 井川直子が2002年からイタリアで修行する日本人料理人達を取材、その後の10年あまりを追ったルポルタージュだ。

今の日本は「イタリア帰り」の料理人が『うじゃうじゃ』いる飽和状態。多くの犠牲を払いイタリアで修行し、成果を挙げて帰国しても料理人としてのポストは確約されていない。『イタリアに修行に来でも人とは違う経験、自分でなければ出来ない料理、つまり自分の『核』となるもの見つからないと彼らは帰れない。』と彼女はいう。
が、その『核』を持ち帰れたからと言って順風満帆の料理人人生が待っているわけではない。

この本の15人の登場人物の一人 堀江純一郎氏は、イタリアで9年間も修行し、最後はアクイテルメにあるレストラン『ピステルナ』のシェフとして日本人初のミシュランの星を獲得した。睡眠時間一日2,3時間、休日も一ヶ月に1、2日という激務を全うして得た大きな勝利だった。だがイタリアで修行中は日本での貯蓄実績が残らないため、堀江氏のような高い実績を持つ料理人でも帰国後に銀行からの融資を受けることは困難で、自分の築きあげた世界を東京で実現するためには出資者を探さねばならず、実に2年の歳月を要し、さらにその2年後、様々な問題でそのレストランを去らなければならなかった。

泊義人氏は、カナーレのレストラン『アッ・レノテカ』でイタリア修行時代を締めくくり帰国。高級レストランの副料理長として迎え入れられたが、料理長と彼に反発する部下達の間で氏自身が『まるでピストルを突きつけられているような』と表現する苦悩の日々を送り、間もなくその店を去った。

また、家族や自身の健康問題で大きな転機に直面する人たちもいた。一体彼らはどうやってその場その場の困難を乗り越えたり大切な選択をしていったのか?次々に登場するシェフ達の難しい岐路にドキドキながらページを繰る。

イタリアにも幾度となく足を運び、彼らが働く厨房を訪ね、井川氏はその場、その時の彼らの生の声を聞いた。本場を体感していた彼ら、そして帰国後の節目節目の彼らの本音を鋭い感性で掴み取り、それを誇張せず、咀嚼せず、最も適当な言葉にして吐き出す。だからこそこの本には読み進むごとに見えてくる人の姿がある。

堀江氏は、東京を離れ京都よりさらに古き都『奈良』の武家屋敷に舞台を移し新たなスタートを切った。アクイテルメの『ピステルナ』は14世紀の建物を改装したものだったこと、イタリアで自分の好きなレストランは大都市の店より小さな町や村の店だったことを思い出したと井川氏にいう。ゲストが小旅行として、奈良を楽しみ、建物と食事を味わい、帰ってからまた思い出す。そういうレストランを作りたい、と。太古の都に最高の食材を集めてきてイタリアンを極める彼のレストラン、その名も『イ・ルンガ』は健全な進化を続けている。

泊氏は北京に渡った。当初務めた日本人のためのレストランで成功はしたものの、それでは『北京で一番の店』と言えないと、活気ある地区で大半が中国人客というレストラン『キッチン・イゴッソ』に移り、トマトをお湯と洗剤で洗い、給仕の仕方も知らなかった中国人スタッフを育て、ボロニェーゼやミラノ風カツレツなどまだイタリアンを紹介するレベルのメニューを要求される中で質の高さを追及する。ビジネス展開つなげるべく新たなステップを踏み始めた。が、この間の困難の中で一度だけ、日本ではなくイタリアに帰りたいと思ったことがあると井川氏に漏らす。イベントで日本を訪れた師ダヴィデ・パルーダと再会した瞬間、ただ料理と向き合えばいいストレスのない生活が眼の前に蘇ったと。

宮根正人氏は、バローロのロカンダ・ネル・ボルゴ・アンティーコでスーシェフを務め上げ帰国し最初から自分はピエモンテで行くと決めていたという。生真面目な性格で、ロンバルディアでは言葉や人間関係で苦労していた彼を愛情を持って育ててくれたオーナーシェフのマッシモ氏との出会いで初めて宮根氏はイタリアで自分の本領を発揮できるようになった。
が、日本での共同経営者は広い客層を得たいと、店の名は宮根氏の願いどおり『オストゥ(ピエモンテーゼでオステリアの意)』でもメニューはイタリア料理全般を求められ苦悩する。そこでクレアティーヴァとピエモンテ料理の二つの軸を用意。中にはフィナツィエラなどディープな料理もメニューに忍ばせた。

4年後、オストゥは宮根氏の単独経営となり、いよいよピエモンテ料理の店となりミシュランで一つ星を獲得するまでになるが『大切なことは続けていくこと。そのためには力を抜くことも大切とイタリアで学んだ』という。彼がスーシェフになった後、その責任感から体を壊したときにマッシモ氏から教わった、と。

井川氏は、この料理人にとって困難な時代にシェフになれた人に共通するのは『つづけた』るという動詞を重きをおいて使っていることという。
さらに、この本を読み終えてみて、彼らが大きな岐路で『つづける』道を選ぶときその多くがイタリアでつかんだ自分の原点に立ち戻っているように思う。料理の技術や経験をはるかに超える大事な何かを。

近年、自分の国に将来を見出せず海外に出て行くイタリアの若者達を多く見かけるが、正直、とても残念だ。どこの国にいっても多かれ少なかれこの本にあるような苦労が待っている。が、つづける術を気質のまったく違う日本人がイタリア人から学べたのなら、イタリアはまだまだ若い世代に伝えられることがあるように思う。

私は宮根氏の東京のお店でアニョロッティ・デル・プリンを食べたことがある。口に入れてはっとした。詰め物になったそれぞれの肉の味が噛み分けられ、それでいてそれらが一つになった味の力を感じさせる。驚きの中で、東京の小さな公園脇のレストランにいた私の目の前にランゲの広大なブドウ畑が広がった。

2015年4月16日掲載


『イル・ゴロザリオ』寄稿第6回 復活祭の野草摘み

今回は復活祭のころにちょうどできる野草にまつわる個人的なエピソードです。受洗からちょうど一年。色々な思いとこれまえ応援をして下さった周囲のみなさんに感謝の気持ちも込めて書きました。

では 
復活祭の野草摘み
http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/erbe-selvatiche-Pasqua


もう時期が終わってしまっていた。荒くなった息を整えながら落胆のため息が一緒にもれる。『ふきのとう』は花が開いてしまったら毒性が強くなって食べられない。が、地表からにょっきり現れた芽は食べられ、そのほろ苦さをてんぷらに封じ込めて口に入れれば春の訪れをいつもと違う方法で感じられるはずだった。
 

気を取り直して今来た野道を引き返す。人里から少し離れたこの辺りに住む婦人とすれ違う。普段はあまり他人との付き合いを得意としない人だが、すれ違い際に笑って挨拶をしてくれた。

左手に『牛たたき』を握り、右手にはさみの入ったナイロン袋を持つ自分の姿に思い当たって私自身も苦笑した。昨年は長雨や仕事で足を運ぶことの出来なかったこの野道に、すみれ、アネモネ、ひな菊からプリモラまで思いつくだけの花がいっせいに咲きそろっていた。

野道をそれ、急勾配を『牛たたき』にすがってって下る。下りきったところにある牧草地には小川が静かに流れていた。今度はお目当てのクレソンもヴァレリアーナものびのびと茂り、誰もまだ手をつけられずにあった。根を残してはさみで刈り取る。

クレソンの切り口からはピリッと青い香りが広がる。硬くないかという心配からヴァレリアーナを一本手折ってみる。案外柔らかくしなりパリッと簡単に折れ、甘ったるい香りがかすかに鼻に届いた。


私がイタリアに住み出した時、嫁として家族になるかもしれない私に、グイドもエドヴィリアも、日本で何をしていたか、なぜイタリアに来たかなどと一度も聞くことはなかった。慣れない生活や言葉の問題に苦悶する私をみると

『さあ、車にのった!わしらはどこに行くのか知らんがの、車の方がちゃーんとしっとって止まるべきところで止まってくれるんじゃ。』

そういって牧草地につれていってくれた。昨日はタラッサコやアチェトーザ、今日はクレソン、明日はヴァレリアーナといった具合に、3人で毎日、野原を這い蹲って黙々とタラッサコを削ぎ、小川の石にしがみついて黙々とクレソンを刈り取った。家に戻り摘んできた野草をテーブルに広げ、お喋りしながらゴミなどを取っているうちに一日が過ぎていく。



百貨店でイッセイミヤケのシャツを買い、ネットでコンサートを予約、若狭牛を焼くのにちょうどいいワインを探し、雑誌でみたあのアロマオイルを買って試してみる。仕事があり、自分で稼いだお金で自分で選んで物が買える東京での生活はなんと楽しかったことか。

ところがここでは野原に通う一週間、現金を引き出し忘れ、週始めに財布にあった
5千リラ札が気がつくと週の終わりにそのまま残っているのを見て驚いたのは一度や二度ではない。だが、そこに何の不足も感じていなかった。

クレソンもヴァレリアーナもそしてふきのとうも、春の野草の多くはその効能に体に蓄積された老廃物を荒い流す浄化作用がある。が、私の場合、浄化してもらったのは体だけではなかった。東京から背負ってきたものを野原に全部ぶちまけて代わりに私は『土』がもつエネルギーを感じていた。そこからイタリアの生活が始まった。


1週間5千リラというマジカルな生活を今では繰り返せないが、春の最初の満月から数えて次の日曜日、つまり復活祭の日を間近に控えたこの時期には必ず野草が盛りを迎え、暇さえあれば今日のように外に出る。

クレソンとヴァレリアーナに茹で卵を加えたサラダは復活祭のラム・ローストの付け合せには欠かせないが、グイドもエドヴィリアも年とともに膝が痛むようになり一緒には来られなくなった。二人のためにも倍の量をと欲張って摘む。夢中になって教会の鐘の音も耳に入らなかったらしい。

帰り道、予定の時間になっても帰らぬ私を心配してグイドが昼寝を切り上げ車で探しに出たのに遭遇した。私と見るとにやりと笑い、あごでしゃくって車に乗れと合図する。

『家まで100メートルもないよ』

『いいから、乗れ』

家についたら、またテーブルに野草を大きく広げ、作業が始まる。歩いて帰れるけどグイドの車に乗る。


それでは皆さん、Buona Pasqua!

2015年4月2日掲載

 

 

 









 

 

 

わたしは、、、

Muccan.JPG
ぶじゃねんのお仕事HP

公楽さんのイタリア紀行 

公楽さん
実に明快!2010年秋、ソルデヴォロ村に滞在された公楽さんご夫妻が紀行文を寄せてくださいました。読めばソルデヴォロ時間が流れるでしょう。

ここです、、、

Video:オルガのバター作り

Video:8月の山に行く

発信!

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