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ピエモンテからぶじゃねんの陽だまる山郷生活

BENVENUTI ALLA CRONACA DEL BôGIA NEN ! ピエモンテの山郷でのんびり生活しています

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『イル・ゴロザリオ』寄稿第5回 カウンターの向こう側

今回は、仲良しのお肉屋さんバローロのサンドローネ一家を紹介します。『イタリア好き』のイベント企画『イタリアマンマのフェスタ』の第1回で日本におじゃましているのでご存知の方もおられるかもしれませんが、とっても明るい仲の良い家族です。 

娘のマルティは今、赤ちゃんがお腹に、、、一家の喜びもひとしお!
では、、、   


    

カウンターの向こう側:サンドローネ精肉店

http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/barolo-sandrone

バローロにあるこの小さな精肉店のことを私は知らなかった。彼らのスペシャリティがタヤリンとアニョロッティ・デル・プリンであることも、ノヴェッロのアグリツーリズモのお上さんが勧めてくれた。『絶品だから』と、、、

Tボーン、サーロイン、筋肉、ショーケースにはこれらはあっても全ては並べていない。少しずつ冷蔵室から出してくる仔牛肉、活き活きと赤く引き締まった肉の塊たち。丸ごと一羽の平飼いの鶏、サルシッチャ、プロシュット、バター、卵、米、乾燥きのこ。

ムラッツァーノチーズは羊の乳量が減り牛乳で代用する時期は扱わないし、最高級オリーブオイルとしてリグーリアのディーノ・アッボのものを並べているのを見れば、生活に必要なものを少量ずつでもしっかり厳選しておいている店だとわかる。

サンドローネ一家の店は懐が深い。
店に入ると挨拶もそこそこに『行きな。皆いるから』といつものように店主のフランコと息子のアンドレアが促してくれる。店の一番奥の明るい工房をのぞき、卵35個で練り上げたパスタからタヤリンを奥さんのマリアグラッツィアが切り出しているのに声をかける。

トゥルッ、トゥルッ、トゥルッ、、、ルオテッリーナ(回転式のラヴィオリカッター)で娘のマルティナがラヴィオリを切り分けている。限られたスペースでも無駄の無い動きでランゲの2大パスタを生み出していく姿にしばし見入る。


レシピを尋ねるとマリアグラッツィアがラヴィオリの詰め物の材料をあれこれ思い出すままに数え挙げながら生のラビオリをひょいと手渡してくれる。

一つ口に入れて噛みしめ材料を確認していると『生じゃだめでしょ!』といつの間にか茹で上がったばかりのラビオリを盛った皿が手に渡されていた。『ほら、パルミジャーノ。』


とにかく仕事が早い。隠し持つ秘伝のレシピはないが、この小さな工房で何トンもの粉と卵をこね、何百万のラビオリを切り続けてきた腕が彼らにはある。


サンドローネ一家には曇りがない。一家の皆が朗らかに人に接している。どんな家族でも日々の暮らしには心配事もあるだろうが顔にはださない。

この店は『Have』つまり彼らにとって、その日の糧を得る手段であるのと同時に訪れる人に何かプラスアルファーを与える『Give』の空間になっている。

村のイベントになれば店先でトリッパを大なべで煮込み、ボッリートを茹でる。ここは足を踏み入れた者を素顔のランゲにリンクさせてくれる場だ。



サンドローネ・ワールドにどっぷり浸り立ち話しているうちに1時間でもあっという間に過ぎてしまうというのは私だけではない。バローロ周辺の住人もいれば、車を飛ばしてやってくる人もいる。

キヤンパリーノ(現ピエモンテ州知事)は私たちと同じようにふらりとこの店の奥に入って来て立ち話をしラヴィオリを包んでもらうとトリノに帰っていった。

フランスの映画俳優ジェラルド・デパルデューは、フランコだけが店番をしていた日に現れ、てんてこ舞いの彼を見かねてアニョロッティ作りを手伝い嬉しそうに帰っていった。




一日に一体何人の観光客がこの店の前を通るだろう。

手にはワインボトルの2,3本入った箱を下げ、牛や豚などの家畜を愛しい図柄にしたこの肉屋の看板に目を留め、店内をガラス越しになんだか楽しげにお喋りする人達の姿を見ても、洗練された部分のランゲを満喫したいツーリストは少し行儀が良過ぎて、宝の眠る洞窟の扉が軽やかに開け放たれていることに気がつかない。



一度、東京でクリニックを経営する夫婦をこの精肉店に案内した。豊かな暮しぶりで世界中を歩いた人たちだがやっぱりマリアグラツィアとマルティナのパスタ作りの手際に目を奪われていた。

マルティナが婦人のほうに試してみるか?とルイテッリーナを手渡す。恐る恐る切り始めた彼女。端から順に切り進むうちこう言った。

『ああ、こぉれは楽しい!!これは私、大好きだわ!』


2015年3月19日掲載

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『イル・ゴロザリオ』への寄稿文の日本語訳を掲載します。

 

 

Paolo Massobrio(パオロ・マッソブリオ)さんは、農場経済及び食文化の分野で長く活躍してみたジャーナリスト。食のガイドブック『il Golosario(イル・ゴロザリオ)』の著者であり、イタリア全土で会員数6000名、50支部を持つグルメクラブ『Club Papillon(クラブ・パピヨン)』の主宰を務めています。

彼のレストランガイド『イル・ゴロザリオ』は点数や星ではなく、料理のレベルはもちろん、居心地、雰囲気、地域との関わり方や、時には、オーナーの人柄まで審査の基準となり、彼のガイドを利用してレストラン選びをすれば間違いがないと、ガイドの利用者たちから大きな信頼を集めています。 

『イル・ゴロザリオ』はレストランガイドだけでなく、ワイン、農産物、食材やお菓子など各地域の特産とその優れた生産者を紹介するガイドも発行。私も食関係のクライアントのための視察場所などの選定の参考に利用することが少なくありません。 

今年1月の半ばにそのマッソブリオ氏から彼の情報サイトに連載の依頼を頂いたときは、何が起こったかと驚きましたが、名誉なことでもあり、喜んでお受けしました。
が、ジャンルやテーマをたずねても全て『Come vuoi!(君の好きなように)』と返事あるのみ。全国紙にかけもちで寄稿し、最近はテレビにレギュラー出演もされている多忙な人の時間は奪えない。自分で考えるしかない

 

それで基本的に次の約束事の中でテーマを決めることにしました。

1・私は料理やワインの専門家ではないから、食の評論はしない。このポータルには多くのイタリア人の食の専門家が寄稿していますから、マッソブリオさんが私にそれを求めているとは思えません。

2.イタリア人はまだまだ日本の食文化を現実を知らない人が多いため、日本の食文化を楽しく広げていく。

3.イタリアの政治や経済はここ数年低迷していて、人々の顔も曇りがちです。イタリア産業の優等生、『食』を日本人の目で見つめ、励ます応援歌となるものを書く。

第一回目は、『宝半島・イタリア』、2回目は『寿司の被害者』3回目は『ザ・ミラクル・バター』4回目は『ワイン・オブ・ライス-日本酒』そして今日5回目に寄稿したものが掲載されました。 

マッソブリオさんの承諾を頂きましたので、今回はまず、その1回目を日本語で掲載します。
もちろんこれはイタリア人に向けて書いているものですから少し違和感があるかもしれません。

では、Buona lettura!

イタリア宝半島 (La penisola del tesoro: 2015年1月21日付)
http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualit%C3%A0/motoko

 「お宝あった?」 
 マルペンサ空港の免税店が並ぶ通路を抜け、帰国便への搭乗を待つ日本人が友達同士でよく口にする言葉だ。「お宝」とは、以前はほとんどの場合ブランド品を意味し、彼らの足元にはピカピカの紙袋が3つ4つと置かれているのが普通だった。ところが最近のイタリアへの日本人旅行者にとって「お宝」は多様化し形を持たないことすらある。      

 この10年ほどで、日本人の旅のあり方は大きく様変わりした。
日本人観光客はイタリアにとって成熟市場になり、ローマ、フィレンツェなどの観光主要都市を巡る格安団体パック旅行への申込者数には陰りがある。日系ツアーオペレーターも岐路に立たされ、よりオリジナリティーがある少人数のための企画を高い質で提供することを迫られている。

 イタリアは日本人にとって魅力多い国だ。一度イタリアを訪れれば、その多くが2度3度とイタリアの土を踏むことになる。そしてその主要目的が食文化の発掘であることは稀ではない。教育課程で世界史や西洋美術が必須の日本だが、イタリアの史跡に対する一般人の知識はヨーロッパ人のそれに比べれば当然浅く、それらに心を動かされることは難しいのに対し、イタリアのエノガストロノミーが持つ説得力つまり『美味さ』は直接的で抵抗しがたい。 

  加えて食を文化として重要な位置づけをするイタリアでは、小さな生産者にこそ日本人が求める「商品の裏にあるストーリー」を含んでいることが多い。 

  7年ほど前、日本のツアーオペレーターから突然切羽詰った声で電話があり、どうしても獲得したい料理学校のイタリア研修の仕事があるが、提案した企画を学園長から「こんな平凡な企画この私に持ってくるな」とつき返された。何かオリジナリティーのある企画を作れないか?という。彼の企画ではチーズでもワインでも生産組合から紹介された大規模生産者(企業)の見学を選んでいた。

 それまで個性的なツアーは提案しても敬遠するばかりのこの旅行会社からの依頼に、(どうせ今回もノーというだろう、だったら、、、)と敢えて自分が一番好きな個性的な生産者を選んで日程を組んだ。ビエッラの森の中にあるトーマ生産者、モンフェッラートのトリフ採り、レストランでのパスタ実習そしてバローロ造り手のテオバルド・カッペッラーノも入れた。後日、予想に反して催行が決まると、受け入れは10人がせいぜいだとテオバルドにも他の生産者にも50人の訪問に小言を言われた。

11月の訪問の当日、テオバルドは体の具合が良くなかった。それでも松葉杖をついて必死でカンティーナまで降りてきてくれ、まるで自分の孫に話をするようにまだ知識も浅い日本の料理人の卵たちに時間を割いてくれた。その姿に心を打たれた日本の若者たちは彼から買ったワインをバスの中でトリノに着くまで抱いていた。テオバルドの訃報を聞いたのはそれから3ヵ月後のことだった。


 料理研究家のグループがカルディの生産者を誰か知らないかとメールしてきた。この人以外にはいないと、ニッツァのボンジョバンニさんを訪ねた。彼のカルド・ゴッボ復活の活動を最初に支持してくれたのはマッソブリさんとグラブパピオンだったといことなどから現在に至るまでの全てを語ってくれたおじいさん。研究家たちと畑に出てカルド・ゴッボを掘ってみせてくれた。彼のカルディをレストランに持ち込みバーニャカウダを食べた彼らに感想を求めるとイタリアの食文化の豊かさに圧倒されて言葉がすぐには出ないと唸る。彼らは二年に一度生産者を訪ねるためイタリアにやってくる。

 5月のある朝、日本人観光客をつれてビエッラの町を歩いていると、教会の慈善事業の一環でポレンタコンチャを大がまで準備していた。ポレンタコンチャ作りの名人が奏でるその香りに、その日本人はここでお昼にしようという。チケットを買って待っていると、どんどんと人だかりが大きくなり、オバちゃんたちと肩をもみあいながら期待は高まる。12時の鐘の音を合図にいよいよ皿が配られる。が、集まった人だかりから突然、暗黙の了解よろしく『Ave Maria』の祈りが全員の口から漏れだした。おもむろにどこからともなく神父様が現れポレンタの大なべに祝福の十字をきってくれた。イタリア人には見慣れた光景でも、その展開を予想だにしていたかった日本人は、肌寒さが少し残るさわやかな日差しの下で一心に祈る純真無垢な人たちの姿と食への感謝の念の表れに心を動かされたと涙し、ヘビーなポレンタコンチャを大事そうになめていた。



 これらのことは実は日本人にとってエキゾチックに写るのはおかしいのだ。日本には仏教の他に神道があり、そこにはアニミズムの基づく食の考え方がある。
 子供の頃、私の祖母は、それぞれのご飯粒が仏様が三体いらっしゃるから粗末にしてはいけないと毎日言い続けていた。日本人の食には魂があった。食べ物を敬う気持ちが『もったいない』という言葉にはある。

 その同じ日本人が今は植物工場という施設を作り、土には一切触れさせない無菌状態の野菜を作って販売している。農水省も施設の増加を補助金制度で後押している。日本でも当然有機農業の価値は高いが、巷には味のしない野菜が流通していることが多い。イタリアに来るとどこで食べても野菜が美味しいという日本人は今でも多い。どこかでボタンを掛け違ったままの食世界に閉じ込められた日本からやってくる旅行者にはイタリア人が心血を注いで作るワインボトル一本、魂のこもった温かなスープ一杯が心の宝になり得る。

 イタリアの小さな生産者や飲食店をとおして州ごとに人々の暮らしを紹介する日本の雑誌の編集長は、取材旅行の帰りに日本へのお土産としてどうしても持って帰りたいとサヴォイ・キャベツを抱いて帰った。『甘く、味わいの深いキャベツの緑はブルガリのダイヤモンドより美しい!』と。
  

 

カトリックという新たな信仰をもった人生の始まり

2013年2月、トスカーナで仕事の打ち合わせを終え、ピエモンテに戻る車内にはローマ法王ベネディクト16世の最後のアンジェラスがラジオから流れていました。生憎の雪道でレンタカーのタイヤは高速に積もった雪を踏みながら危なっかしく進んでいましたが、私と夫の耳はラジオから流れる法皇の言葉に集中していました。



優しくそしてなんと言っても晴れやかなその声は法皇ベネディクト16世としてよりも人間ヨーゼフ・ラッツィンガーとして人々に語りかけているように感じました。 その温かさに自分の胸を貫かれ涙が溢れたのを今でも覚えています。 こうして私はその日、イタリアで暮らし始めてから14年の歳月を経てカトリック信者として洗礼を受けることを心と体で受け入れることができました。その日が自分にこんなに早く訪れようとは夢にもおもっていませんでしたが、そのことをとても嬉しくおもっています。

イタリアでのこれまでの生活はソルデヴォロ村、ビエッラ地域という小さなコミュニティーに迎え入れてもらい、人種を超えてこの地に心身ともに溶け込んだ暮らしをさせてもらってきたとおもっています。そこには少なからぬキリスト教が照らす光がどこかしらあったのは確かです。 いつか自分はキリスト教に改宗する日が来るかもしれないとはおもっていました。が、それは自分の老いと向き合うことになってからでもいいではないか、自分が十分に納得できるまでは安易に改宗はしたくない、そう考えてきました。

ベネディクト16世の突然の辞任表明は、確かに最初は驚きました。が、私の場合すぐに納得がいきました。ここ数年のヴァチカンか抱えていた問題や批判はそれはそれは深刻で大きなものだった。それに対して発する法皇の言葉に例えばイタリアでは耳を傾ける人は少なかった。 ヨハネ・パオロ2世が健康上の理由で自ら行えなかった復活祭のヴィア・クルーチスを当時の枢機卿だった彼が代わりに執り行った際のスピーチで『今日の教会はなんと汚れていることか!』と厳しい戒めの言葉を投げかけたのを覚えています。あれは彼の本心であり、教会がより正しい道へと舵を切り返して欲しいという願いがあったと今でも信じています。 ところが彼自身が法皇となられてからも状況はそう簡単には変わらなかった。

でも、辞任を決意されるほど心を痛めておられたとはいう思いには至りませんでした。 アンジェラスでの法皇の言葉を聞いてもそれに気がつかないどころか、この人は心の冷たい四角四面の法皇だとテレビに向かって非難すらしていた。 最後のアンジェラスを聴きながら流した涙は、もっと法皇の言葉に耳を傾けるべきだったという後悔の念もありました。

これまで私の人生やものの考え方に影響を与えた人は、自分に近しい人たちでした。学校の先生、友人、家族で、本はいっぱい読みましたがその中の登場人物に大きく影響されることもありませんでした。ですからこんなに離れた距離にある法皇の決意にこれほど自分の心が動かされるとはおもってもみませんでした。 しかし、考えてみれば法皇はこれほど大切な決心をされるのに相談できる『人』はいなかったでしょう。その点ではきっと深い苦悩の日々を送られた。彼のような立場の人はでは一体誰にアドバイスを求めることが出来たのか。当然『神』のみでしょう。法皇ご自身の中におられる神に何度も問いかけておられたとしたか考えられない。それでとられた決断がヴァチカンの全ての権力の中心であり、これからもずっとそうあり続けることのできた立場でありながら、まさにその立場を退くことであった。この誠実で謙虚な法皇の姿勢に私は自然におして心に湧き上がってくるように『神』の存在を信じることができました。

この決心をした後、実際にはソルデヴォロ村の神父様のところに相談に行き、成人用のカテキズム教育をはじめました。仕事を多く抱える身の私のために神父様は私の夫にカテキズム教育の指導をすることを提案くださいました。そうすることで時間があるときに家庭ですぐに勉強をはじめられるだろうと。 そうして2週間に一度神父様のところに夫と二人で伺い、不確かなところを明らかにして頂いたり、ポイントの部分を深めていただいたりしています。

イタリアでは教会や聖職者を批判する人は大勢います。教会離れも進んでいます。 しかし、イタリア語を勉強し、イタリア人を知れば知るほど、この国の人々にはキリスト教文化がしっかりと浸み込んでいて、表面的に否定したところでどうにもならないイタリア人の生活とキリスト教は強く結びついています。

90年代の終わり、日本でイタリア語を習い始めた頃、故フィリッポ・フィオレンティーニ先生は日本人の生活や人間性に触れ『日本人にはゆるしの心がない』といわれたことがあります。 当時はその意味があまり理解できず、それ以降、一つの人生のテーマともいうべき疑問となっていました。いまでもこうだとはっきりは言えませんが、少しずつその意味を理解し始めています。 この春4月19日、復活祭の前夜に村の教会で村の人たちに見守られ私は洗礼を受けるでしょう。 その前も後も実際には何も変わらないはずですが、私はそれまでの自分とは違う人生を歩み始めます。 特に、『人の弱さ』を知り、それを『許し』、周りの人とこれまで以上に助け合って生きていかなければならないとおもいます。どこまで出来るかわかりませんがこのことを大切にしていきたいとおもいます。『人の弱さ』とは体の障害や、老い、人生の苦難もそうでしょうが、『意思の弱さ』『感受性のなさ』『ねたみ』『欲』だって『弱さ』です。

 このブログのページを読まれた方は突然になんだ!?と驚かれたことでしょう。 私がこれを書いた一つの理由は、これまで私を温かく見守ってくださった皆さん、日本の友人や仕事が縁で知り合うことができた皆さんにこの場をお借りしてお礼を言いたかったからです。

そして、イタリア生活の中で揺れ動く私の精神面を広く支えてくださった皆さん、意図があったにせよなかったにせよ (笑:この点についてはいずれこのブログ上でお話しすることがあるかもしれませんが)受洗の決意まで導いてくださった人たち、そしてなんといっても黙って見守ってくれた夫クラウディオとその家族、日本の母にも心から感謝したいとおもいます。

イヴァーノ・フォッサーティの決意

2月10日夜。原始人にIvano Fossatiのコンサートに連れて行かれました。
凍てついた雪道を車を走らせ、おとなりのVercelli県まで1時間の道のり。ぶつぶつと文句を言いながら、、、とにかくついていきました。

Ivano FossatiはFabrizio De Andre'や Francesco De Gregoriらと並ぶイタリアを代表するシンガーソングライターで、Fiorella MannoiaやPatti Bravoなど女性歌手のためにも多くのヒット曲を書いており、これまでに書いた曲は400曲以上にのぼるそうです。

その彼が、今回のコンサートツアーを最後に事実上引退することを発表。
2月始め、国営放送RAI3の人気番組「Che TempoChe Fa?」の引退特別番組があったことも手伝ってこの日のコンサート会場は超満員でした。

ここに掲載している曲は 『Mio Fratello che guardi il mondo』という貧しい国の子供たちのことを歌った曲です。Ivano Fossatiはクリスチャンであることを大切にしている人のようで、政治的、社会的なメッセージをこめた曲も少なくありません。

彼の引退の理由は、RAIの番組中でも具体的に明らかにはされませんでしたが、他の仕事をしていく決心をしたからだそうです。

番組司会者のFabio Fazioは彼の決心の内容を知っているがどうもそれはIvano Fossati自身の希望で公表しないという口ぶりでした。でもその口元の小さな笑みは、彼の決心を応援しているという感じでした。、、、そうなると知らない私たちにはおせっかいな興味がわくというものです!

たぶんこれが私にとって最初で最後になるはずの彼のコンサートは、彼自身の優しさがじんわり伝わってくるとても素敵なコンサートでした。メッセージ性のある曲も書いている彼ですが、でもお説教くさくもなく淡々と歌い、軽いジョークも飛ばし引退の言葉もあえて出すことなくコンサートはすすんでいきました。


この曲『Mio Fratello che guardi il mondo』を歌いだしたとき、バックに大きくアフリカやアジアの貧しい子供たち、戦争に巻き込まれて食べるものにもこと欠くあるいは瓦礫のやまの中で途方に暮れる子供たちの写真が次々と映し出されました。その中に一枚、真っ青な空の下で小さなキリストの像が瓦礫の下じきになっているのが数秒間だけ映し出されました。彩色の鮮やかな像なのに、空爆の際に顔に受けた傷が生々しい悲しい写真でした。

ふと、この人は音楽活動を止めてこれらの国のどこかにボランティアに行く気でいるのではないかと思い当たりました。間違っているかもしれませんがでも音楽を止めてどこかの銀行員やレストラン経営者になるとは思えませんものね。何か彼自身が自分のキャリアを省みることの無いほど意味があると思えることといえばそういうことではないかと思えてきました。

日本人だって人道援助に力を注いでいる人は大勢います。私が高校生のころからボランティアとか貧困にあえぐ国への援助という考え方がテレビでも取り上げられ(『愛は地球を救う』など)今では先進国の国民の大きな義務として捉えられていますが、私はその夜、また一人静かにそういう活動をはじめようとしている人をイタリアで目の前にしていたのでしょう。

イタリア人の心の温かさは口では表現できない深さを感じることがよくあります。
日本でイタリア語を勉強していた頃、イタリア語教師から『日本人にはPerdono(許し)がない』といわれたことがあります。そのPerdonoの真の意味がわからなくてずっとかぎ括弧でくくっておいたのですが、このごろようやくその慈愛に裏づけされたPerdonoの意味を感じるようになりました。

この大きな疑問を私たちに投げかけてくださった東京のフィリッポ先生は一昨年なくなられたそうです。Ivano Fossatiのコンサート中、なぜかその先生のことをずっと思い出していました。

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『イタリア好き』ピエモンテ特集

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写真をクリック



原始人と私がコーディネートを担当させていただいたイタリア好きのためのフリーマガジン
その名も『イタリア好き』 ピエモンテ特集が11月1日に発行されました。
普段はあまり広告行為はしないことに決めているのですが今回はちょっと特別です。

『イタリア好き』プロデューサーの松本浩明氏の出会いは2年前の秋、東京で行われた世界旅行博会場。
会場で突然はじめてしまった日本イタリアワイン対決の場にたまたま通りかかった松本氏にも試飲をしていただいたのがきっかけでした。

今回のコーディネートにあたり、取材先の選定にはこんな条件が氏からだされました。
ピエモンテの食の世界は広く知れ渡るところとなり現地で料理の修業をされたひとも多い。
そんなことから、これまでにない知られざるピエモンテの顔を発掘できるような取材先を探すこと!!

キレイなだけじゃダメ!!凄いだけじゃダメ!!もっと深い何かをもった人たちに焦点をあてる

ビエッラやピエモンテで既に私たちと時間とともにされている方は御存知とおもいますが、それこそあまのじゃくピエモンテーゼである私たちの大好きなテーマ!! 、、、とはいうものの、果たして本当に気に入っていただけるかどうか、、、期待と不安が交互に去来するなか9月上旬に取材は敢行、そしてその後も松本さんや記者の板倉由未子氏スタッフの方たちの膨大な作業の末、この度無事発行の日を迎えたのです。
ページを開けばフォトグラファー萬田康文氏の手によるそれぞれのパーソナリティー&エネルギーのほとばしるショットが飛び出します。

イタリアが大好きな人のために
イタリアで本当に触れたい、知りたいものは何なのかを追究し
松本氏やスタッフの皆さんが一球入魂で創り上げるこのマガジン
これからも応援をしていきたいと思っています。

ピエモンテ特集はイタリア政府観光局、イタリア大使館、イタリアズッキーニ・パートナーズ加盟店となっているイタリア料理店などで配布される他、イタリアズッキーニクラブ会員になると郵送してもらえるようです。

応援よろしくお願いいたします。ね!
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わたしは、、、

Muccan.JPG
ぶじゃねんのお仕事HP

公楽さんのイタリア紀行 

公楽さん
実に明快!2010年秋、ソルデヴォロ村に滞在された公楽さんご夫妻が紀行文を寄せてくださいました。読めばソルデヴォロ時間が流れるでしょう。

ここです、、、

Video:オルガのバター作り

Video:8月の山に行く

発信!

ビエッラのショッピングガイド


より大きな地図で ビエッラ・ショッピングガイド の詳細はここをクリック

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