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ピエモンテからぶじゃねんの陽だまる山郷生活

BENVENUTI ALLA CRONACA DEL BôGIA NEN ! ピエモンテの山郷でのんびり生活しています

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ブログをお引越ししました。

みなさま、これまで『ピエモンテからぶじゃねんの陽だまる山郷生活』を応援頂きありがとうございました。 
この度、『ぶじゃねん通信-イタリア・ピエモンテから-」と10年前の出発点に立ち戻り気持ちも新たに新ブログを始めることにしました。 
URLは下記になります。
今後ともご愛顧のほどどうぞよろしくお願いをいたします!! 
 
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『イル・ゴロザリオ』寄稿第7回は 井川直子著『シェフをつづけるということ』を読んで

イタリアの食の分野で活躍する人たちが、この本を読んだらどう思うだろう!? 今、イタリアで修業中の日本の若い料理人さんのことももっと知って欲しい! そんなワクワクする気持ちでこの原稿を書き始めました。

読むのと書評を特にイタリア人に向けて書くのは全く違うことですね。イタリア人に子の本について知ってもらいたいことはもっともっとありましたが、最終的に削って削って、いったいこの本の何を知ってもらいたいのか、、、一番苦戦したものになりましたが、とっても楽しい作業となりました。 井川直子氏はじめご協力を頂いた皆さんに感謝しつつ日本語バージョンをこちらに掲載します。 

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               『シェフをつづけるということ』

http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/fare-lo-chef


   

日本で一冊の本が出版された。-シェフを『つづける』ということ(ミシマ社)-ジャーナリスト 井川直子が2002年からイタリアで修行する日本人料理人達を取材、その後の10年あまりを追ったルポルタージュだ。

今の日本は「イタリア帰り」の料理人が『うじゃうじゃ』いる飽和状態。多くの犠牲を払いイタリアで修行し、成果を挙げて帰国しても料理人としてのポストは確約されていない。『イタリアに修行に来でも人とは違う経験、自分でなければ出来ない料理、つまり自分の『核』となるもの見つからないと彼らは帰れない。』と彼女はいう。
が、その『核』を持ち帰れたからと言って順風満帆の料理人人生が待っているわけではない。

この本の15人の登場人物の一人 堀江純一郎氏は、イタリアで9年間も修行し、最後はアクイテルメにあるレストラン『ピステルナ』のシェフとして日本人初のミシュランの星を獲得した。睡眠時間一日2,3時間、休日も一ヶ月に1、2日という激務を全うして得た大きな勝利だった。だがイタリアで修行中は日本での貯蓄実績が残らないため、堀江氏のような高い実績を持つ料理人でも帰国後に銀行からの融資を受けることは困難で、自分の築きあげた世界を東京で実現するためには出資者を探さねばならず、実に2年の歳月を要し、さらにその2年後、様々な問題でそのレストランを去らなければならなかった。

泊義人氏は、カナーレのレストラン『アッ・レノテカ』でイタリア修行時代を締めくくり帰国。高級レストランの副料理長として迎え入れられたが、料理長と彼に反発する部下達の間で氏自身が『まるでピストルを突きつけられているような』と表現する苦悩の日々を送り、間もなくその店を去った。

また、家族や自身の健康問題で大きな転機に直面する人たちもいた。一体彼らはどうやってその場その場の困難を乗り越えたり大切な選択をしていったのか?次々に登場するシェフ達の難しい岐路にドキドキながらページを繰る。

イタリアにも幾度となく足を運び、彼らが働く厨房を訪ね、井川氏はその場、その時の彼らの生の声を聞いた。本場を体感していた彼ら、そして帰国後の節目節目の彼らの本音を鋭い感性で掴み取り、それを誇張せず、咀嚼せず、最も適当な言葉にして吐き出す。だからこそこの本には読み進むごとに見えてくる人の姿がある。

堀江氏は、東京を離れ京都よりさらに古き都『奈良』の武家屋敷に舞台を移し新たなスタートを切った。アクイテルメの『ピステルナ』は14世紀の建物を改装したものだったこと、イタリアで自分の好きなレストランは大都市の店より小さな町や村の店だったことを思い出したと井川氏にいう。ゲストが小旅行として、奈良を楽しみ、建物と食事を味わい、帰ってからまた思い出す。そういうレストランを作りたい、と。太古の都に最高の食材を集めてきてイタリアンを極める彼のレストラン、その名も『イ・ルンガ』は健全な進化を続けている。

泊氏は北京に渡った。当初務めた日本人のためのレストランで成功はしたものの、それでは『北京で一番の店』と言えないと、活気ある地区で大半が中国人客というレストラン『キッチン・イゴッソ』に移り、トマトをお湯と洗剤で洗い、給仕の仕方も知らなかった中国人スタッフを育て、ボロニェーゼやミラノ風カツレツなどまだイタリアンを紹介するレベルのメニューを要求される中で質の高さを追及する。ビジネス展開つなげるべく新たなステップを踏み始めた。が、この間の困難の中で一度だけ、日本ではなくイタリアに帰りたいと思ったことがあると井川氏に漏らす。イベントで日本を訪れた師ダヴィデ・パルーダと再会した瞬間、ただ料理と向き合えばいいストレスのない生活が眼の前に蘇ったと。

宮根正人氏は、バローロのロカンダ・ネル・ボルゴ・アンティーコでスーシェフを務め上げ帰国し最初から自分はピエモンテで行くと決めていたという。生真面目な性格で、ロンバルディアでは言葉や人間関係で苦労していた彼を愛情を持って育ててくれたオーナーシェフのマッシモ氏との出会いで初めて宮根氏はイタリアで自分の本領を発揮できるようになった。
が、日本での共同経営者は広い客層を得たいと、店の名は宮根氏の願いどおり『オストゥ(ピエモンテーゼでオステリアの意)』でもメニューはイタリア料理全般を求められ苦悩する。そこでクレアティーヴァとピエモンテ料理の二つの軸を用意。中にはフィナツィエラなどディープな料理もメニューに忍ばせた。

4年後、オストゥは宮根氏の単独経営となり、いよいよピエモンテ料理の店となりミシュランで一つ星を獲得するまでになるが『大切なことは続けていくこと。そのためには力を抜くことも大切とイタリアで学んだ』という。彼がスーシェフになった後、その責任感から体を壊したときにマッシモ氏から教わった、と。

井川氏は、この料理人にとって困難な時代にシェフになれた人に共通するのは『つづけた』るという動詞を重きをおいて使っていることという。
さらに、この本を読み終えてみて、彼らが大きな岐路で『つづける』道を選ぶときその多くがイタリアでつかんだ自分の原点に立ち戻っているように思う。料理の技術や経験をはるかに超える大事な何かを。

近年、自分の国に将来を見出せず海外に出て行くイタリアの若者達を多く見かけるが、正直、とても残念だ。どこの国にいっても多かれ少なかれこの本にあるような苦労が待っている。が、つづける術を気質のまったく違う日本人がイタリア人から学べたのなら、イタリアはまだまだ若い世代に伝えられることがあるように思う。

私は宮根氏の東京のお店でアニョロッティ・デル・プリンを食べたことがある。口に入れてはっとした。詰め物になったそれぞれの肉の味が噛み分けられ、それでいてそれらが一つになった味の力を感じさせる。驚きの中で、東京の小さな公園脇のレストランにいた私の目の前にランゲの広大なブドウ畑が広がった。

2015年4月16日掲載


『イル・ゴロザリオ』寄稿第6回 復活祭の野草摘み

今回は復活祭のころにちょうどできる野草にまつわる個人的なエピソードです。受洗からちょうど一年。色々な思いとこれまえ応援をして下さった周囲のみなさんに感謝の気持ちも込めて書きました。

では 
復活祭の野草摘み
http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/erbe-selvatiche-Pasqua


もう時期が終わってしまっていた。荒くなった息を整えながら落胆のため息が一緒にもれる。『ふきのとう』は花が開いてしまったら毒性が強くなって食べられない。が、地表からにょっきり現れた芽は食べられ、そのほろ苦さをてんぷらに封じ込めて口に入れれば春の訪れをいつもと違う方法で感じられるはずだった。
 

気を取り直して今来た野道を引き返す。人里から少し離れたこの辺りに住む婦人とすれ違う。普段はあまり他人との付き合いを得意としない人だが、すれ違い際に笑って挨拶をしてくれた。

左手に『牛たたき』を握り、右手にはさみの入ったナイロン袋を持つ自分の姿に思い当たって私自身も苦笑した。昨年は長雨や仕事で足を運ぶことの出来なかったこの野道に、すみれ、アネモネ、ひな菊からプリモラまで思いつくだけの花がいっせいに咲きそろっていた。

野道をそれ、急勾配を『牛たたき』にすがってって下る。下りきったところにある牧草地には小川が静かに流れていた。今度はお目当てのクレソンもヴァレリアーナものびのびと茂り、誰もまだ手をつけられずにあった。根を残してはさみで刈り取る。

クレソンの切り口からはピリッと青い香りが広がる。硬くないかという心配からヴァレリアーナを一本手折ってみる。案外柔らかくしなりパリッと簡単に折れ、甘ったるい香りがかすかに鼻に届いた。


私がイタリアに住み出した時、嫁として家族になるかもしれない私に、グイドもエドヴィリアも、日本で何をしていたか、なぜイタリアに来たかなどと一度も聞くことはなかった。慣れない生活や言葉の問題に苦悶する私をみると

『さあ、車にのった!わしらはどこに行くのか知らんがの、車の方がちゃーんとしっとって止まるべきところで止まってくれるんじゃ。』

そういって牧草地につれていってくれた。昨日はタラッサコやアチェトーザ、今日はクレソン、明日はヴァレリアーナといった具合に、3人で毎日、野原を這い蹲って黙々とタラッサコを削ぎ、小川の石にしがみついて黙々とクレソンを刈り取った。家に戻り摘んできた野草をテーブルに広げ、お喋りしながらゴミなどを取っているうちに一日が過ぎていく。



百貨店でイッセイミヤケのシャツを買い、ネットでコンサートを予約、若狭牛を焼くのにちょうどいいワインを探し、雑誌でみたあのアロマオイルを買って試してみる。仕事があり、自分で稼いだお金で自分で選んで物が買える東京での生活はなんと楽しかったことか。

ところがここでは野原に通う一週間、現金を引き出し忘れ、週始めに財布にあった
5千リラ札が気がつくと週の終わりにそのまま残っているのを見て驚いたのは一度や二度ではない。だが、そこに何の不足も感じていなかった。

クレソンもヴァレリアーナもそしてふきのとうも、春の野草の多くはその効能に体に蓄積された老廃物を荒い流す浄化作用がある。が、私の場合、浄化してもらったのは体だけではなかった。東京から背負ってきたものを野原に全部ぶちまけて代わりに私は『土』がもつエネルギーを感じていた。そこからイタリアの生活が始まった。


1週間5千リラというマジカルな生活を今では繰り返せないが、春の最初の満月から数えて次の日曜日、つまり復活祭の日を間近に控えたこの時期には必ず野草が盛りを迎え、暇さえあれば今日のように外に出る。

クレソンとヴァレリアーナに茹で卵を加えたサラダは復活祭のラム・ローストの付け合せには欠かせないが、グイドもエドヴィリアも年とともに膝が痛むようになり一緒には来られなくなった。二人のためにも倍の量をと欲張って摘む。夢中になって教会の鐘の音も耳に入らなかったらしい。

帰り道、予定の時間になっても帰らぬ私を心配してグイドが昼寝を切り上げ車で探しに出たのに遭遇した。私と見るとにやりと笑い、あごでしゃくって車に乗れと合図する。

『家まで100メートルもないよ』

『いいから、乗れ』

家についたら、またテーブルに野草を大きく広げ、作業が始まる。歩いて帰れるけどグイドの車に乗る。


それでは皆さん、Buona Pasqua!

2015年4月2日掲載

 

 

 









 

 

 

『イル・ゴロザリオ』寄稿 第3回 - ザ・ミラクル・バター

2013年8月、大切に思っていたリーザおばさんが亡くなりました。お葬式の日、仕事である日本の取材クルーと出かけねばならず、葬儀には参列したものの、おばさんが亡くなったことをどう受け入れていいか考えるだけでもめまいがして、これから仕事に出かけるという心境には到底なれなかったのを今でも覚えています。

原始人に、「他人に迷惑はかけられないから今はおばさんの事ははなかったことにしておけ」といわれました。それを強く思いすぎたせいでしょうか、私の中でそれからずっとリーザおばさんはこの世のどこかにいることになり、心の中で清算がつけないままでした。

今回、『Il Golosario』へのこの寄稿を機会に一つの区切りがついたように思います。掲載にご協力を頂いた『料理通信社』取材班の皆さんに心から感謝します。 

では、、、

  

『ザ・ミラクル・バター』

http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/miracle-butter

 陽に晒されてざらついた表面の入り口の扉を押して中に入るとキッチンとを結ぶもう一つのドアにはめ込まれた小窓からは、リーザが暖炉の前で大きな背中をこちらに向け、小枝をくべているのが見えた。

低めにとった窓から差し込む夕方の弱い光だけではこのキッチンの棚のコーヒー缶、四角い目覚まし時計、ストーブの上におかれた寸胴鍋、ベンチの上で押し潰されたクッションも、真ん中に置かれたテーブルの上の花柄のプラスチック製のテーブルクロスも明るく照らすには不十分だった。

薄暗く、さらに全てが暖炉の煙で煤けていても、きちんと片付いて一筋の埃もないキッチン。
 中に入るとリーザが振り返って私を見るなり怒鳴った。
「ビンを洗剤で洗ったね、嫌な匂いが残ってた。ダメじゃないか!牛乳の汚れは酢と塩で取るんだ。」
 私がリーザに怒られたのは後にも先にもこの時の一度きりだった。
「まあ座りな。」


そう言うと、彼女も椅子を引いて座る。肩を縮めて謝り、私も座るといつものたわいもないお喋りが始める。ここからは目覚ましの針の動きは何の意味も持たなくなる。


 標高1000mにある山腹にある1700年代後半にナポレオンの時代フランスから落ち伸びがトラッピスト修道士が住んでいた建造物。

その廃屋を改造して牛を飼い暮らしていた一家の娘として牛舎で生れ落ちた彼女。70才を大きく越えたリーザは何でも知っていた。

子牛の胃でカッリョ(チーズの凝固剤)を作ることも、豚の脂肪を煮て石鹸を作ることも、アルニカから打ち身に効くクリームを作ることも。雲の動き、風の向きを見ると先人の諺を持ち出して天気を占った。地域のあらゆるハーブを配合して10種類以上のリキュールをカンティーナに作り置き、尋ねてくる人にちょっともったいぶりながら振舞っていた。


 そして、何といってもバター。肥沃なこの地域の草だけを食べて牛が出す乳の脂肪を撹拌するだけのシンプルなバターが、なんともいえないミルクの味わいを持ち、コクのある生ハムやアンチョビと一緒に口の中に入れるとその存在はさらに何倍にも膨らんだ。


 『ミラクル・バター』とは彼女を初めてたずねた日本のジャーナリストがつけた名前だ。深いコクがあるのに舌に嫌な脂っこさを残さず溶けるていくのは、150年ほどと酪農文化が浅く、工場生産が一般的な日本の国民にとってまさにミラクルだった。

 テクノロジーを用いずとも、ごまかしの通用しない自然を相手に暮らせる人は強い。彼女はそのことを知っていたし、その強さを信じていたから怖いものがなかった。村から出ることがほとんどなくても、世界を放浪しつくして彼女の農家にたどり着く私たち日本人との間に垣根を一切つくることがなかった。


 2005年末、日本で新しく、質の高い食の情報誌を目指す雑誌『料理通信』が生まれると知り、自分の住む地域のPRを日本でするには活字にしてもらうことが大切と考えた私は、地域の協力でこの雑誌社の取材クルーを招聘した。

彼女を通してこの地域のマルガリの人たちの暮らしを見てもらいたいと思った。日本人は古いものと手入れを怠っただけの物との見分けがすぐにできる。彼女のキッチンに入れば、そこが暮らしのワンダーランドだとすぐにわかる。 

 クルーの責任者がこの地域での5日間の取材を終えた記者発表で最初にこう言った。
『マルガリの人たちはあなた達の宝ですね。』
 そこに集まった地域の有識者たちから一瞬戸惑いの空気が沸きあがった。『世界遺産もある。世界を代表する工業製品もある。マルガリの人たちの素晴らしさは自分たちが一番良く知っている。だが、それが何よりも世界へのアピールになるというのか?』そんな戸惑い。


 その数年後、同じ人たちを前に同じことを言った人がいる。スローフード協会会長のカルロ・ペロリーニだ。この地域のバターがスローフードのプレシディオに指定されたのはそれから数年後のことだ。

 陽も暮れ、ビンにつめてもらった搾りたての牛乳を腕に抱えて野道を引き返す。母親のぬくもりと同じ牛乳の暖かさは不思議なことに簡単に冷めたりしない。満天の星の下を足早に家もどってからも、牛乳のぬくもりも、リキュールをなめながらリーザとのお喋りを楽しみながら得ていた暖炉の薪のぬくもりもまだ暫く残っていた。


 リーザはもういない。
リーザが紹介された『料理通信』ゼロ号の奥付には、いたずらっぽいリーザの顔がアラン・デュカスと相対して掲載されていた。
 
 


 

 

わざわい・of・すーしー

『il Golosario(イル・ゴロザリオ)』への寄稿第2回の日本語訳です。今回は日本食文化の代表『お寿司』について。色々小さな誤解を含んだままスターダムに駆け上ったこの料理に纏わる笑いのエピソードを交えて今一度イタリアで紹介してみたいと思いました。

ちょうどあるイタリアンのシェフが日本の寿司(Sushi)は『Noiosi(つまらない)、俺の創作Susci」は最高!』と全国紙2ページを割いて語っていたのを読んだ頃で、反論したくなったものあります。日本のお寿司をお腹いっぱい食べた時のような満足感はありませんでしたが、彼のいうSusciも確かに創作性溢れる力作ではありましたが、、、。
では、Buona Lettura!

 

WAZAWAIof・す--

http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/sushi#.VNHb
 

 イタリア語を話せない者が、イタリア人と友情を結びたいと考えるとき、料理に覚えがあったらそれは幸運だ。

 初めてピエモンテを訪れたとき、現地の友人達にすしを作って欲しいとせがまれて困った。イタリアで流行のいわゆる『にぎり寿司』は日本の家庭では作らない。すし職人はすし飯を炊けるまでに3年、握りに8年かかるといわれるプロの料理だ。

 なぜかは聞かないで欲しい。が、そのとき私の鞄の中には。ワサビも、醤油も、さらには最高のコシヒカリ米や大吟醸酒まで入っていた。
 私が生まれて初めて握ったすしは最低の見てくれだった。が、それを食べたイタリア人の一人がその後まもなく私を娶った。


 結婚式当日、3頭の大マグロが魚屋から贈られた。花嫁のはずの私自身で解体して結婚を祝ってくれた人100人に振舞った。準備が終わって会場に入ると、晴れの日に皆で味わおうと食べずにいたペコリーノ・ディ・フォッサ(トスカーナのテンダロッサのオーナー自らがガレージで熟成してくれたもの)もラルド・ディ・コロンナータ(あの小さな広場のタバコ屋で日本人で一番きれいと褒めてくれたおばあさんから買った)もただの一切れも残っていなかった。すしは良く知っている。イタリアの選び抜かれた食材の味は私だって試してみたかった。


 新婚旅行の道すがら、ある全国紙で働くジャーナリストの知り合いをブラッチャーノ湖畔(ローマ近郊)に訪ねた。彼は土産は要らないから大好きなすしを作って欲しいという。小さなアタッシュケースにワサビや他の材料のほかに今度は切れ味抜群に研がれた包丁も入れてピエモンテを後にした。一晩にすしを2回、計150貫作ったのはあのときが最初で最後。その後も友人を訪ねるたびに必ず寿司作り専用具を入れたケースを必ず持ち歩いている。

 リグーリアでは、マグロを手に入れられなくて苦労した。漁港をうろつき漁師さんたちと仲良くなり、徹夜の漁に出る船に隠れ乗りマグロを分けてもらうと、陸に上がって体に船の揺れが残る困難のなかマグロをさばいた。その漁師さんたちとは10年以上の付き合いになる心の友だ。


 当時、イタリア語を勉強はしていてもイタリア人同士の会話にところどころしか参加できなかった私にとって、食卓に上る自分の国の一皿に言葉にできない愛情を込めてコミュニケーションとするので精一杯だった。あれから15年が経った。

 『すし』はそもそも煮た米の中に魚の塩漬けを入れて発酵させた保存食だった。それが日本各地で形を変えてそれぞれの地域の『すし』になった。200年前、江戸と呼ばれていた東京で料理人が『すし』を粋に作って売り出したのが『握りずし』だ。素材をいじりすぎず、魚の鮮度、米の旨さを引き立て人を喜ばせるのがこの料理だ。始めは抵抗感があっても何度か食べるうちに他の料理にはない不思議な魅了でもう一つ食べたいと思わせる。シンプルに見えて熟練した料理人の腕が求められる料理であり、家庭料理ではない。そのためかこれなしには生きていけない料理『ソウルフード』は何かと聞かれて「すし」と応える日本人はあまりいない。私にとってもソウルフードは白いご飯に秋刀魚の塩焼きだ。


 15年前は、食で保守的なイタリア人女性に敬遠されることも多く、そんな時は自分自身が敬遠されたように落ち込んだものだった。だが今は、まさにその女性たちから「すし」作りを教わりたいといわれる。近頃は「すし」を握らなくても友達はどんどん増えている。が、すしを介して友情はもっと早く深く膨らんでいる。世界を一つにするのは音楽だけではない。美味しい料理だってそうだ。
 ナポリから東京にやってきたカメオ職人が日本の友人のために母親の味を思い出しながら作ってくれたボンゴレ・スパゲッティのトマトソースの味の深さは今も忘れることができない。


 長らく会っていなかったワイン生産者の友人からある日連絡があり、娘のクリスマスプレセントに私には無断だったが『幹子の作ったすし』と書いたカードをプレゼントしてしまった言われた。どうしてだか分からないが、くすぐったい嬉しさを感じた。


 私の父はほとんど笑うことのない怖い人だった。が、魚をさばくのを見せてくれ、名工の打った包丁を家を出る私に渡してくれたことには今も感謝している。
 

 

 
 
 
 

 


 
 。

 
 

 

 

わたしは、、、

Muccan.JPG
ぶじゃねんのお仕事HP

公楽さんのイタリア紀行 

公楽さん
実に明快!2010年秋、ソルデヴォロ村に滞在された公楽さんご夫妻が紀行文を寄せてくださいました。読めばソルデヴォロ時間が流れるでしょう。

ここです、、、

Video:オルガのバター作り

Video:8月の山に行く

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