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ピエモンテからぶじゃねんの陽だまる山郷生活

BENVENUTI ALLA CRONACA DEL BôGIA NEN ! ピエモンテの山郷でのんびり生活しています

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『イル・ゴロザリオ』寄稿第5回 カウンターの向こう側

今回は、仲良しのお肉屋さんバローロのサンドローネ一家を紹介します。『イタリア好き』のイベント企画『イタリアマンマのフェスタ』の第1回で日本におじゃましているのでご存知の方もおられるかもしれませんが、とっても明るい仲の良い家族です。 

娘のマルティは今、赤ちゃんがお腹に、、、一家の喜びもひとしお!
では、、、   


    

カウンターの向こう側:サンドローネ精肉店

http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/barolo-sandrone

バローロにあるこの小さな精肉店のことを私は知らなかった。彼らのスペシャリティがタヤリンとアニョロッティ・デル・プリンであることも、ノヴェッロのアグリツーリズモのお上さんが勧めてくれた。『絶品だから』と、、、

Tボーン、サーロイン、筋肉、ショーケースにはこれらはあっても全ては並べていない。少しずつ冷蔵室から出してくる仔牛肉、活き活きと赤く引き締まった肉の塊たち。丸ごと一羽の平飼いの鶏、サルシッチャ、プロシュット、バター、卵、米、乾燥きのこ。

ムラッツァーノチーズは羊の乳量が減り牛乳で代用する時期は扱わないし、最高級オリーブオイルとしてリグーリアのディーノ・アッボのものを並べているのを見れば、生活に必要なものを少量ずつでもしっかり厳選しておいている店だとわかる。

サンドローネ一家の店は懐が深い。
店に入ると挨拶もそこそこに『行きな。皆いるから』といつものように店主のフランコと息子のアンドレアが促してくれる。店の一番奥の明るい工房をのぞき、卵35個で練り上げたパスタからタヤリンを奥さんのマリアグラッツィアが切り出しているのに声をかける。

トゥルッ、トゥルッ、トゥルッ、、、ルオテッリーナ(回転式のラヴィオリカッター)で娘のマルティナがラヴィオリを切り分けている。限られたスペースでも無駄の無い動きでランゲの2大パスタを生み出していく姿にしばし見入る。


レシピを尋ねるとマリアグラッツィアがラヴィオリの詰め物の材料をあれこれ思い出すままに数え挙げながら生のラビオリをひょいと手渡してくれる。

一つ口に入れて噛みしめ材料を確認していると『生じゃだめでしょ!』といつの間にか茹で上がったばかりのラビオリを盛った皿が手に渡されていた。『ほら、パルミジャーノ。』


とにかく仕事が早い。隠し持つ秘伝のレシピはないが、この小さな工房で何トンもの粉と卵をこね、何百万のラビオリを切り続けてきた腕が彼らにはある。


サンドローネ一家には曇りがない。一家の皆が朗らかに人に接している。どんな家族でも日々の暮らしには心配事もあるだろうが顔にはださない。

この店は『Have』つまり彼らにとって、その日の糧を得る手段であるのと同時に訪れる人に何かプラスアルファーを与える『Give』の空間になっている。

村のイベントになれば店先でトリッパを大なべで煮込み、ボッリートを茹でる。ここは足を踏み入れた者を素顔のランゲにリンクさせてくれる場だ。



サンドローネ・ワールドにどっぷり浸り立ち話しているうちに1時間でもあっという間に過ぎてしまうというのは私だけではない。バローロ周辺の住人もいれば、車を飛ばしてやってくる人もいる。

キヤンパリーノ(現ピエモンテ州知事)は私たちと同じようにふらりとこの店の奥に入って来て立ち話をしラヴィオリを包んでもらうとトリノに帰っていった。

フランスの映画俳優ジェラルド・デパルデューは、フランコだけが店番をしていた日に現れ、てんてこ舞いの彼を見かねてアニョロッティ作りを手伝い嬉しそうに帰っていった。




一日に一体何人の観光客がこの店の前を通るだろう。

手にはワインボトルの2,3本入った箱を下げ、牛や豚などの家畜を愛しい図柄にしたこの肉屋の看板に目を留め、店内をガラス越しになんだか楽しげにお喋りする人達の姿を見ても、洗練された部分のランゲを満喫したいツーリストは少し行儀が良過ぎて、宝の眠る洞窟の扉が軽やかに開け放たれていることに気がつかない。



一度、東京でクリニックを経営する夫婦をこの精肉店に案内した。豊かな暮しぶりで世界中を歩いた人たちだがやっぱりマリアグラツィアとマルティナのパスタ作りの手際に目を奪われていた。

マルティナが婦人のほうに試してみるか?とルイテッリーナを手渡す。恐る恐る切り始めた彼女。端から順に切り進むうちこう言った。

『ああ、こぉれは楽しい!!これは私、大好きだわ!』


2015年3月19日掲載

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『イル・ゴロザリオ』寄稿 第3回 - ザ・ミラクル・バター

2013年8月、大切に思っていたリーザおばさんが亡くなりました。お葬式の日、仕事である日本の取材クルーと出かけねばならず、葬儀には参列したものの、おばさんが亡くなったことをどう受け入れていいか考えるだけでもめまいがして、これから仕事に出かけるという心境には到底なれなかったのを今でも覚えています。

原始人に、「他人に迷惑はかけられないから今はおばさんの事ははなかったことにしておけ」といわれました。それを強く思いすぎたせいでしょうか、私の中でそれからずっとリーザおばさんはこの世のどこかにいることになり、心の中で清算がつけないままでした。

今回、『Il Golosario』へのこの寄稿を機会に一つの区切りがついたように思います。掲載にご協力を頂いた『料理通信社』取材班の皆さんに心から感謝します。 

では、、、

  

『ザ・ミラクル・バター』

http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/miracle-butter

 陽に晒されてざらついた表面の入り口の扉を押して中に入るとキッチンとを結ぶもう一つのドアにはめ込まれた小窓からは、リーザが暖炉の前で大きな背中をこちらに向け、小枝をくべているのが見えた。

低めにとった窓から差し込む夕方の弱い光だけではこのキッチンの棚のコーヒー缶、四角い目覚まし時計、ストーブの上におかれた寸胴鍋、ベンチの上で押し潰されたクッションも、真ん中に置かれたテーブルの上の花柄のプラスチック製のテーブルクロスも明るく照らすには不十分だった。

薄暗く、さらに全てが暖炉の煙で煤けていても、きちんと片付いて一筋の埃もないキッチン。
 中に入るとリーザが振り返って私を見るなり怒鳴った。
「ビンを洗剤で洗ったね、嫌な匂いが残ってた。ダメじゃないか!牛乳の汚れは酢と塩で取るんだ。」
 私がリーザに怒られたのは後にも先にもこの時の一度きりだった。
「まあ座りな。」


そう言うと、彼女も椅子を引いて座る。肩を縮めて謝り、私も座るといつものたわいもないお喋りが始める。ここからは目覚ましの針の動きは何の意味も持たなくなる。


 標高1000mにある山腹にある1700年代後半にナポレオンの時代フランスから落ち伸びがトラッピスト修道士が住んでいた建造物。

その廃屋を改造して牛を飼い暮らしていた一家の娘として牛舎で生れ落ちた彼女。70才を大きく越えたリーザは何でも知っていた。

子牛の胃でカッリョ(チーズの凝固剤)を作ることも、豚の脂肪を煮て石鹸を作ることも、アルニカから打ち身に効くクリームを作ることも。雲の動き、風の向きを見ると先人の諺を持ち出して天気を占った。地域のあらゆるハーブを配合して10種類以上のリキュールをカンティーナに作り置き、尋ねてくる人にちょっともったいぶりながら振舞っていた。


 そして、何といってもバター。肥沃なこの地域の草だけを食べて牛が出す乳の脂肪を撹拌するだけのシンプルなバターが、なんともいえないミルクの味わいを持ち、コクのある生ハムやアンチョビと一緒に口の中に入れるとその存在はさらに何倍にも膨らんだ。


 『ミラクル・バター』とは彼女を初めてたずねた日本のジャーナリストがつけた名前だ。深いコクがあるのに舌に嫌な脂っこさを残さず溶けるていくのは、150年ほどと酪農文化が浅く、工場生産が一般的な日本の国民にとってまさにミラクルだった。

 テクノロジーを用いずとも、ごまかしの通用しない自然を相手に暮らせる人は強い。彼女はそのことを知っていたし、その強さを信じていたから怖いものがなかった。村から出ることがほとんどなくても、世界を放浪しつくして彼女の農家にたどり着く私たち日本人との間に垣根を一切つくることがなかった。


 2005年末、日本で新しく、質の高い食の情報誌を目指す雑誌『料理通信』が生まれると知り、自分の住む地域のPRを日本でするには活字にしてもらうことが大切と考えた私は、地域の協力でこの雑誌社の取材クルーを招聘した。

彼女を通してこの地域のマルガリの人たちの暮らしを見てもらいたいと思った。日本人は古いものと手入れを怠っただけの物との見分けがすぐにできる。彼女のキッチンに入れば、そこが暮らしのワンダーランドだとすぐにわかる。 

 クルーの責任者がこの地域での5日間の取材を終えた記者発表で最初にこう言った。
『マルガリの人たちはあなた達の宝ですね。』
 そこに集まった地域の有識者たちから一瞬戸惑いの空気が沸きあがった。『世界遺産もある。世界を代表する工業製品もある。マルガリの人たちの素晴らしさは自分たちが一番良く知っている。だが、それが何よりも世界へのアピールになるというのか?』そんな戸惑い。


 その数年後、同じ人たちを前に同じことを言った人がいる。スローフード協会会長のカルロ・ペロリーニだ。この地域のバターがスローフードのプレシディオに指定されたのはそれから数年後のことだ。

 陽も暮れ、ビンにつめてもらった搾りたての牛乳を腕に抱えて野道を引き返す。母親のぬくもりと同じ牛乳の暖かさは不思議なことに簡単に冷めたりしない。満天の星の下を足早に家もどってからも、牛乳のぬくもりも、リキュールをなめながらリーザとのお喋りを楽しみながら得ていた暖炉の薪のぬくもりもまだ暫く残っていた。


 リーザはもういない。
リーザが紹介された『料理通信』ゼロ号の奥付には、いたずらっぽいリーザの顔がアラン・デュカスと相対して掲載されていた。
 
 


 

 

わざわい・of・すーしー

『il Golosario(イル・ゴロザリオ)』への寄稿第2回の日本語訳です。今回は日本食文化の代表『お寿司』について。色々小さな誤解を含んだままスターダムに駆け上ったこの料理に纏わる笑いのエピソードを交えて今一度イタリアで紹介してみたいと思いました。

ちょうどあるイタリアンのシェフが日本の寿司(Sushi)は『Noiosi(つまらない)、俺の創作Susci」は最高!』と全国紙2ページを割いて語っていたのを読んだ頃で、反論したくなったものあります。日本のお寿司をお腹いっぱい食べた時のような満足感はありませんでしたが、彼のいうSusciも確かに創作性溢れる力作ではありましたが、、、。
では、Buona Lettura!

 

WAZAWAIof・す--

http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/sushi#.VNHb
 

 イタリア語を話せない者が、イタリア人と友情を結びたいと考えるとき、料理に覚えがあったらそれは幸運だ。

 初めてピエモンテを訪れたとき、現地の友人達にすしを作って欲しいとせがまれて困った。イタリアで流行のいわゆる『にぎり寿司』は日本の家庭では作らない。すし職人はすし飯を炊けるまでに3年、握りに8年かかるといわれるプロの料理だ。

 なぜかは聞かないで欲しい。が、そのとき私の鞄の中には。ワサビも、醤油も、さらには最高のコシヒカリ米や大吟醸酒まで入っていた。
 私が生まれて初めて握ったすしは最低の見てくれだった。が、それを食べたイタリア人の一人がその後まもなく私を娶った。


 結婚式当日、3頭の大マグロが魚屋から贈られた。花嫁のはずの私自身で解体して結婚を祝ってくれた人100人に振舞った。準備が終わって会場に入ると、晴れの日に皆で味わおうと食べずにいたペコリーノ・ディ・フォッサ(トスカーナのテンダロッサのオーナー自らがガレージで熟成してくれたもの)もラルド・ディ・コロンナータ(あの小さな広場のタバコ屋で日本人で一番きれいと褒めてくれたおばあさんから買った)もただの一切れも残っていなかった。すしは良く知っている。イタリアの選び抜かれた食材の味は私だって試してみたかった。


 新婚旅行の道すがら、ある全国紙で働くジャーナリストの知り合いをブラッチャーノ湖畔(ローマ近郊)に訪ねた。彼は土産は要らないから大好きなすしを作って欲しいという。小さなアタッシュケースにワサビや他の材料のほかに今度は切れ味抜群に研がれた包丁も入れてピエモンテを後にした。一晩にすしを2回、計150貫作ったのはあのときが最初で最後。その後も友人を訪ねるたびに必ず寿司作り専用具を入れたケースを必ず持ち歩いている。

 リグーリアでは、マグロを手に入れられなくて苦労した。漁港をうろつき漁師さんたちと仲良くなり、徹夜の漁に出る船に隠れ乗りマグロを分けてもらうと、陸に上がって体に船の揺れが残る困難のなかマグロをさばいた。その漁師さんたちとは10年以上の付き合いになる心の友だ。


 当時、イタリア語を勉強はしていてもイタリア人同士の会話にところどころしか参加できなかった私にとって、食卓に上る自分の国の一皿に言葉にできない愛情を込めてコミュニケーションとするので精一杯だった。あれから15年が経った。

 『すし』はそもそも煮た米の中に魚の塩漬けを入れて発酵させた保存食だった。それが日本各地で形を変えてそれぞれの地域の『すし』になった。200年前、江戸と呼ばれていた東京で料理人が『すし』を粋に作って売り出したのが『握りずし』だ。素材をいじりすぎず、魚の鮮度、米の旨さを引き立て人を喜ばせるのがこの料理だ。始めは抵抗感があっても何度か食べるうちに他の料理にはない不思議な魅了でもう一つ食べたいと思わせる。シンプルに見えて熟練した料理人の腕が求められる料理であり、家庭料理ではない。そのためかこれなしには生きていけない料理『ソウルフード』は何かと聞かれて「すし」と応える日本人はあまりいない。私にとってもソウルフードは白いご飯に秋刀魚の塩焼きだ。


 15年前は、食で保守的なイタリア人女性に敬遠されることも多く、そんな時は自分自身が敬遠されたように落ち込んだものだった。だが今は、まさにその女性たちから「すし」作りを教わりたいといわれる。近頃は「すし」を握らなくても友達はどんどん増えている。が、すしを介して友情はもっと早く深く膨らんでいる。世界を一つにするのは音楽だけではない。美味しい料理だってそうだ。
 ナポリから東京にやってきたカメオ職人が日本の友人のために母親の味を思い出しながら作ってくれたボンゴレ・スパゲッティのトマトソースの味の深さは今も忘れることができない。


 長らく会っていなかったワイン生産者の友人からある日連絡があり、娘のクリスマスプレセントに私には無断だったが『幹子の作ったすし』と書いたカードをプレゼントしてしまった言われた。どうしてだか分からないが、くすぐったい嬉しさを感じた。


 私の父はほとんど笑うことのない怖い人だった。が、魚をさばくのを見せてくれ、名工の打った包丁を家を出る私に渡してくれたことには今も感謝している。
 

 

 
 
 
 

 


 
 。

 
 

 

 

『イル・ゴロザリオ』への寄稿文の日本語訳を掲載します。

 

 

Paolo Massobrio(パオロ・マッソブリオ)さんは、農場経済及び食文化の分野で長く活躍してみたジャーナリスト。食のガイドブック『il Golosario(イル・ゴロザリオ)』の著者であり、イタリア全土で会員数6000名、50支部を持つグルメクラブ『Club Papillon(クラブ・パピヨン)』の主宰を務めています。

彼のレストランガイド『イル・ゴロザリオ』は点数や星ではなく、料理のレベルはもちろん、居心地、雰囲気、地域との関わり方や、時には、オーナーの人柄まで審査の基準となり、彼のガイドを利用してレストラン選びをすれば間違いがないと、ガイドの利用者たちから大きな信頼を集めています。 

『イル・ゴロザリオ』はレストランガイドだけでなく、ワイン、農産物、食材やお菓子など各地域の特産とその優れた生産者を紹介するガイドも発行。私も食関係のクライアントのための視察場所などの選定の参考に利用することが少なくありません。 

今年1月の半ばにそのマッソブリオ氏から彼の情報サイトに連載の依頼を頂いたときは、何が起こったかと驚きましたが、名誉なことでもあり、喜んでお受けしました。
が、ジャンルやテーマをたずねても全て『Come vuoi!(君の好きなように)』と返事あるのみ。全国紙にかけもちで寄稿し、最近はテレビにレギュラー出演もされている多忙な人の時間は奪えない。自分で考えるしかない

 

それで基本的に次の約束事の中でテーマを決めることにしました。

1・私は料理やワインの専門家ではないから、食の評論はしない。このポータルには多くのイタリア人の食の専門家が寄稿していますから、マッソブリオさんが私にそれを求めているとは思えません。

2.イタリア人はまだまだ日本の食文化を現実を知らない人が多いため、日本の食文化を楽しく広げていく。

3.イタリアの政治や経済はここ数年低迷していて、人々の顔も曇りがちです。イタリア産業の優等生、『食』を日本人の目で見つめ、励ます応援歌となるものを書く。

第一回目は、『宝半島・イタリア』、2回目は『寿司の被害者』3回目は『ザ・ミラクル・バター』4回目は『ワイン・オブ・ライス-日本酒』そして今日5回目に寄稿したものが掲載されました。 

マッソブリオさんの承諾を頂きましたので、今回はまず、その1回目を日本語で掲載します。
もちろんこれはイタリア人に向けて書いているものですから少し違和感があるかもしれません。

では、Buona lettura!

イタリア宝半島 (La penisola del tesoro: 2015年1月21日付)
http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualit%C3%A0/motoko

 「お宝あった?」 
 マルペンサ空港の免税店が並ぶ通路を抜け、帰国便への搭乗を待つ日本人が友達同士でよく口にする言葉だ。「お宝」とは、以前はほとんどの場合ブランド品を意味し、彼らの足元にはピカピカの紙袋が3つ4つと置かれているのが普通だった。ところが最近のイタリアへの日本人旅行者にとって「お宝」は多様化し形を持たないことすらある。      

 この10年ほどで、日本人の旅のあり方は大きく様変わりした。
日本人観光客はイタリアにとって成熟市場になり、ローマ、フィレンツェなどの観光主要都市を巡る格安団体パック旅行への申込者数には陰りがある。日系ツアーオペレーターも岐路に立たされ、よりオリジナリティーがある少人数のための企画を高い質で提供することを迫られている。

 イタリアは日本人にとって魅力多い国だ。一度イタリアを訪れれば、その多くが2度3度とイタリアの土を踏むことになる。そしてその主要目的が食文化の発掘であることは稀ではない。教育課程で世界史や西洋美術が必須の日本だが、イタリアの史跡に対する一般人の知識はヨーロッパ人のそれに比べれば当然浅く、それらに心を動かされることは難しいのに対し、イタリアのエノガストロノミーが持つ説得力つまり『美味さ』は直接的で抵抗しがたい。 

  加えて食を文化として重要な位置づけをするイタリアでは、小さな生産者にこそ日本人が求める「商品の裏にあるストーリー」を含んでいることが多い。 

  7年ほど前、日本のツアーオペレーターから突然切羽詰った声で電話があり、どうしても獲得したい料理学校のイタリア研修の仕事があるが、提案した企画を学園長から「こんな平凡な企画この私に持ってくるな」とつき返された。何かオリジナリティーのある企画を作れないか?という。彼の企画ではチーズでもワインでも生産組合から紹介された大規模生産者(企業)の見学を選んでいた。

 それまで個性的なツアーは提案しても敬遠するばかりのこの旅行会社からの依頼に、(どうせ今回もノーというだろう、だったら、、、)と敢えて自分が一番好きな個性的な生産者を選んで日程を組んだ。ビエッラの森の中にあるトーマ生産者、モンフェッラートのトリフ採り、レストランでのパスタ実習そしてバローロ造り手のテオバルド・カッペッラーノも入れた。後日、予想に反して催行が決まると、受け入れは10人がせいぜいだとテオバルドにも他の生産者にも50人の訪問に小言を言われた。

11月の訪問の当日、テオバルドは体の具合が良くなかった。それでも松葉杖をついて必死でカンティーナまで降りてきてくれ、まるで自分の孫に話をするようにまだ知識も浅い日本の料理人の卵たちに時間を割いてくれた。その姿に心を打たれた日本の若者たちは彼から買ったワインをバスの中でトリノに着くまで抱いていた。テオバルドの訃報を聞いたのはそれから3ヵ月後のことだった。


 料理研究家のグループがカルディの生産者を誰か知らないかとメールしてきた。この人以外にはいないと、ニッツァのボンジョバンニさんを訪ねた。彼のカルド・ゴッボ復活の活動を最初に支持してくれたのはマッソブリさんとグラブパピオンだったといことなどから現在に至るまでの全てを語ってくれたおじいさん。研究家たちと畑に出てカルド・ゴッボを掘ってみせてくれた。彼のカルディをレストランに持ち込みバーニャカウダを食べた彼らに感想を求めるとイタリアの食文化の豊かさに圧倒されて言葉がすぐには出ないと唸る。彼らは二年に一度生産者を訪ねるためイタリアにやってくる。

 5月のある朝、日本人観光客をつれてビエッラの町を歩いていると、教会の慈善事業の一環でポレンタコンチャを大がまで準備していた。ポレンタコンチャ作りの名人が奏でるその香りに、その日本人はここでお昼にしようという。チケットを買って待っていると、どんどんと人だかりが大きくなり、オバちゃんたちと肩をもみあいながら期待は高まる。12時の鐘の音を合図にいよいよ皿が配られる。が、集まった人だかりから突然、暗黙の了解よろしく『Ave Maria』の祈りが全員の口から漏れだした。おもむろにどこからともなく神父様が現れポレンタの大なべに祝福の十字をきってくれた。イタリア人には見慣れた光景でも、その展開を予想だにしていたかった日本人は、肌寒さが少し残るさわやかな日差しの下で一心に祈る純真無垢な人たちの姿と食への感謝の念の表れに心を動かされたと涙し、ヘビーなポレンタコンチャを大事そうになめていた。



 これらのことは実は日本人にとってエキゾチックに写るのはおかしいのだ。日本には仏教の他に神道があり、そこにはアニミズムの基づく食の考え方がある。
 子供の頃、私の祖母は、それぞれのご飯粒が仏様が三体いらっしゃるから粗末にしてはいけないと毎日言い続けていた。日本人の食には魂があった。食べ物を敬う気持ちが『もったいない』という言葉にはある。

 その同じ日本人が今は植物工場という施設を作り、土には一切触れさせない無菌状態の野菜を作って販売している。農水省も施設の増加を補助金制度で後押している。日本でも当然有機農業の価値は高いが、巷には味のしない野菜が流通していることが多い。イタリアに来るとどこで食べても野菜が美味しいという日本人は今でも多い。どこかでボタンを掛け違ったままの食世界に閉じ込められた日本からやってくる旅行者にはイタリア人が心血を注いで作るワインボトル一本、魂のこもった温かなスープ一杯が心の宝になり得る。

 イタリアの小さな生産者や飲食店をとおして州ごとに人々の暮らしを紹介する日本の雑誌の編集長は、取材旅行の帰りに日本へのお土産としてどうしても持って帰りたいとサヴォイ・キャベツを抱いて帰った。『甘く、味わいの深いキャベツの緑はブルガリのダイヤモンドより美しい!』と。
  

 

ベルカ、新しい我が家の住人が野生を呼ぶ

まだ、我が家の新しい住人をご紹介していませんでした。
名前は『ベルカ』。

 名前の候補は20以上あった気もしますが、古川日出夫さんの小説『ベルカ、吠えないのか」を原始人はイタリア語、私は日本語でちょうど読み終わった頃で、なんとなとなくこの名前に決まりました。
 獣医さんで登録をした際にはチェコスロバキアン・ウルフとして登録しましたし、事実、犬種としてはそうなのですが、実は彼のおばあちゃんは野生のアメリカオオカミ。

 この子が我が家にやってくるにはいろいろ経緯があります。

親子でスリーショット


 登山家、冒険家として知られるあるイタリア人が10年ほど前、あるきっかけで2匹のオオカミを連れ冬のノルウェー単独縦断3000キロに成功。
 過去に一度挑戦したものの孤独に負け断念。その後、オオカミの子犬を2匹をもらい受けて育て、彼らを伴って再トライ、見事北極圏に到達。その手記が2006年に出版されました。


 この本はオオカミ好きや自然愛好家、登山愛好家の間で大きな反響を呼び、今でも再版が続いています。

 2006年当時、村の文化評議員をしていた原始人も子供の頃から大のオオカミ好き。この冒険家を招き講演会を企画。会場はすぐにいっぱいになるほどの盛況ぶりでした。

生後半年ごろ
 
 2013年2月、家族のようにかわいがっていたジャーマンシェパードが亡くなり、気落ちした私たち。すぐには新しい犬を飼う気にはなれず、もうすぐ1年がたとうというころ、講演会以後すっかり連絡が途絶えていた前述の冒険家から私に連絡が入ります。

 北極圏近いラップランドで新しい事業を始めた為の翻訳依頼でした。対応で電話に出た原始人、私の了解を得るまでもなく快諾。
「ところで、オオカミの子供がいたりしない?」
「えっ!?何で知っているの?」と、冒険家。

 原始人は期待半分で当てずっぽうにいったのですが、実はノルウェイ縦断の際について行ったオオカミたちは亡くなっているものの、現在、その血を引くオス(母親が前述のオオカミの妹)チェコスロバキアン・ウルフの間に子供が生まれる予定だというのです。(野生のオオカミから3代目なら法的にも一般家庭で飼うことができます。)
 
引き取りに行った際のテントの中で

 私は彼のために翻訳をする代わりに、子犬をもらい受ける約束がその場で取り交わされました。翻訳は楽ではなかったけれど、このオオカミ犬を引き取りたいという申し出はすでに800件を超えていたものの、私たちのリクエストは受け入れられました。

 が、他にも条件が、、、

まず、彼の住むコルティーナの標高1600メートルの山荘にまで子犬を選びに行くこと。その場で、この子たちを飼う資質を私たちが持っているか冒険家さんに品定めされました。

そしてその後、さらに高地、まだ残雪が6mもある標高2000メートルの野営地に子犬を引き取りに行き、彼らの住む環境を理解するために2泊すること。『野営地』とは、本当に標高2000メートルの酷寒の地にアメリカン・インディアンのテントを張ってあるだけ。中は小型ストーブが一個。

彼らを飼うには大きな忍耐が必要になるため、ここでも冒険家さんに試されることに。
彼は『例えばお金ならいくらでも出すからオオカミ犬を売って欲しいという人には渡したくない、生半可な気持ちで飼い、後で問題をおこして僕の手元に戻されるようなことは絶対的に避けたい』と何度も繰り返していました。

  で、言い出した以上、引き下がりたくない原始人。かんじきを履いて3時間かけ目的地に到着したものの、寒さと、子犬が一晩中入れ替わり彼のお腹の上を行ったり来たりで眠れない。
  翌朝、なんのかんのもっともらしい理由をつけ、ベルカと一緒に下山するゆるしを冒険家からもらいます。

  こうしてすぐさま、5時間車を飛ばしてソルデヴォロに戻ってきた原始人。
あの日からかれこれ10か月がたちました。

  ベルカの体重も17キロだったのが42キロ。心はまだ幼いけど体はほぼ一人前です。
雄大な自然の中で腕白に育っていた彼に人間の暮らしに馴染むためのルールを知ってもらうための格闘中です。
  車に乗って移動する。人と(特に女性や子供)遊びたくても飛びかからない、噛むことでコミュニケーションをとろうとしない、バールでおやつをもらいたくても待つ、ほかの犬にアグレッシブにならない、などなど。

  これらを少しずつでも覚えてくれている彼。でも一番変わったのは私と原始人の生活でしょう。 これからも折に触れ、彼のことをお話ししたいと思います。


わたしは、、、

Muccan.JPG
ぶじゃねんのお仕事HP

公楽さんのイタリア紀行 

公楽さん
実に明快!2010年秋、ソルデヴォロ村に滞在された公楽さんご夫妻が紀行文を寄せてくださいました。読めばソルデヴォロ時間が流れるでしょう。

ここです、、、

Video:オルガのバター作り

Video:8月の山に行く

発信!

ビエッラのショッピングガイド


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